男はいかにも飲み込んだように、首を下げて見せた。
「君の方で分かっていようがいまいが、札をくれるのが規則だろう」
「いや間違えやしません。あなたの顔は知っています」
「知っていようがいまいが問題じゃない。札をくれたまえ。規則だろう」
「いくら規則でも、あんまりひどい草履ですね」と、彼は煙管を、火鉢の縁にやけに叩いた。
「人をばかにするな。何だと思うんだ。いくら汚くても履物は履物だぜ」譲吉は本当に憤慨していった。
「あなたの帽子が、どこの学校の帽子かぐらいは知っている。が、何も札をあげなくたって、間違わないというんだから、いいでしょう」と、爺はまだ頑強に抗弁した。譲吉は、自分の方に、十二分の理由があるのを信じたが、大男の足のすぐそばに置かれている自分の草履を見ると、どうもその理由を正当に主張する勇気までが砕けがちであった。下足に供えてある上草履のどれよりも、貧弱だった。先方から借りる上草履よりも、わるい草履を預けながら、下足札を要求する権利は、本当からいえば存在しないものかも知れなかった。
その時の喧嘩の結末が、どう着いたか、譲吉はもう忘れている。自分の方が勝って下足札を貰ったようにも思うし、自分の方が負けてとうとう下足札を貰えなかったようにも思える。
が、とにかくあのこと以来、あの大男の爺は自分の顔を、はっきりと覚えているに違いないと彼は思った。むろん、譲吉はそうした喧嘩をしたために、あの男に対する同情を、少しも無くしはしなかった。ああした暗い生き甲斐のない生活をあわれむ心は、少しも変っていなかった。
彼がどんなに窮迫しているときでも、図書館へ行って、彼らが昔ながらにあの暗い地下室で蠢いているのを見ると、俺の生活がこの先どんなに逼迫しても、あすこまで行くのにはまだ間があるというような、妙な慰めを感ずると同時に、生涯日の目も見ずに、あの地下室で一生を送らねばならぬ彼らを、悼ましく思わずにはおられなかった。
あの二人は、やっぱりいるに違いない。火鉢にぶつりともいわずに、くすんだ顔をして向い合っているに違いない。あの生活から脱却する機会は死ぬまで彼らには来ないのだと譲吉は思った。あの図書館へ来る幾百幾千という青年が、多少の落伍者はあるとして、それぞれ目的を達して、世の中へ打って出るにもかかわらず、あの爺は永久に下足番をしている。あの暗い地下室から、永久に這い出さ
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