を忘《わす》れるくらいです。それは、さっきの鳥《とり》の名《な》も知《し》らなければ、どこへ飛《と》んで行《い》ったのかも知《し》りませんでしたけれど、生《うま》れてから今《いま》までに会《あ》ったどの鳥《とり》に対《たい》しても感《かん》じた事《こと》のない気持《きもち》を感《かん》じさせられたのでした。子家鴨《こあひる》はあのきれいな鳥達《とりたち》を嫉《ねた》ましく思《おも》ったのではありませんでしたけれども、自分《じぶん》もあんなに可愛《かわい》らしかったらなあとは、しきりに考《かんが》えました。可哀《かわい》そうにこの子家鴨《こあひる》だって、もとの家鴨達《あひるたち》が少《すこ》し元気《げんき》をつける様《よう》にしてさえくれれば、どんなに喜《よろこ》んでみんなと一緒《いっしょ》に暮《くら》したでしょうに!
 さて、寒《さむ》さは日々《ひび》にひどくなって来《き》ました。子家鴨《こあひる》は水《みず》が凍《こお》ってしまわない様《よう》にと、しょっちゅう、その上《うえ》を泳《およ》ぎ廻《まわ》っていなければなりませんでした。けれども夜毎々々《よごとよごと》に、それが泳《およ》げる場所《ばしょ》は狭《せま》くなる一方《いっぽう》でした。そして、とうとうそれは固《かた》く固《かた》く凍《こお》ってきて、子家鴨《こあひる》が動《うご》くと水《みず》の中《なか》の氷《こおり》がめりめり割《わ》れる様《よう》になったので、子家鴨《こあひる》は、すっかりその場所《ばしょ》が氷《こおり》で、閉《と》ざされてしまわない様《よう》力《ちから》限《かぎ》り脚《あし》で水《みず》をばちゃばちゃ掻《か》いていなければなりませんでした。そのうちしかしもう全《まった》く疲《つか》れきってしまい、どうする事《こと》も出来《でき》ずにぐったりと水《みず》の中《なか》で凍《こご》えてきました。
 が、翌朝《よくあさ》早《はや》く、一人《ひとり》の百姓《ひゃくしょう》が[#「百姓が」は底本では「百性が」]そこを通《とお》りかかって、この事《こと》を見《み》つけたのでした。彼《かれ》は穿《は》いていた木靴《きぐつ》で氷《こおり》を割《わ》り、子家鴨《こあひる》を連《つ》れて、妻《つま》のところに帰《かえ》って来《き》ました。温《あたた》まってくるとこの可哀《かわい》そうな生《い》き物《もの》は息《いき》を吹《ふ》きかえして来《き》ました。けれども子供達《こどもたち》がそれと一緒《いっしょ》に遊《あそ》ぼうとしかけると、子家鴨《こあひる》は、みんながまた何《なに》か自分《じぶん》にいたずらをするのだと思《おも》い込《こ》んで、びっくりして跳《と》び立《た》って、ミルクの入《はい》っていたお鍋《なべ》にとび込《こ》んでしまいました。それであたりはミルクだらけという始末《しまつ》。おかみさんが思《おも》わず手《て》を叩《たた》くと、それはなおびっくりして、今度《こんど》はバタの桶《おけ》やら粉桶《こなおけ》やらに脚《あし》を突《つ》っ込《こ》んで、また匐《は》い出《だ》しました。さあ大変《たいへん》な騒《さわ》ぎです。おかみさんはきいきい言《い》って、火箸《ひばし》でぶとうとするし、子供達《こどもたち》もわいわい燥《はしゃ》いで、捕《つかま》えようとするはずみにお互《たが》いにぶつかって転《ころ》んだりしてしまいました。けれども幸《さいわ》いに子家鴨《こあひる》はうまく逃《に》げおおせました。開《ひら》いていた戸《と》の間《あいだ》から出《で》て、やっと叢《くさむら》の中《なか》まで辿《たど》り着《つ》いたのです。そして新《あら》たに降《ふ》り積《つも》った雪《ゆき》の上《うえ》に全《まった》く疲《つか》れた身《み》を横《よこ》たえたのでした。
 この子家鴨《こあひる》が苦《くる》しい冬《ふゆ》の間《あいだ》に出遭《であ》った様々《さまざま》な難儀《なんぎ》をすっかりお話《はな》しした日《ひ》には、それはずいぶん悲《かな》しい物語《ものがたり》になるでしょう。が、その冬《ふゆ》が過《す》ぎ去《さ》ってしまったとき、ある朝《あさ》、子家鴨《こあひる》は自分《じぶん》が沢地《たくち》の蒲《がま》の中《なか》に倒《たお》れているのに気《き》がついたのでした。それは、お日様《ひさま》が温《あたたか》く照《て》っているのを見《み》たり、雲雀《ひばり》の歌《うた》を聞《き》いたりして、もうあたりがすっかりきれいな春《はる》になっているのを知《し》りました。するとこの若《わか》い鳥《とり》は翼《つばさ》で横腹《よこばら》を摶《う》ってみましたが、それは全《まった》くしっかりしていて、彼《かれ》は空《そら》高《たか》く昇《のぼ》りはじめました。そしてこの翼《つばさ》はどんど
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