りと聞く、立上がれ、一太刀参らうと、冗談半分に、一本、釘を打って居るのである。此の場は家康の気転で収ったが斯うした空気が常に二人の間に流れて居たことはわかる。
亦此の陣で、関白が僅か十四五騎ばかりで居たことがある。井伊直政は今こそ秀吉を討ち取る好機だと、家康に耳語したところ、「自分を頼み切って居るのに、籠の鳥を殺すような酷《むご》いことは出来ない。天下をとるのは運命であって、畢竟《ひっきょう》人力の及ぶ所でない」と、たしなめたと云う。
強い者に対した時だけ、信義を振り廻すのが一番であると確信して居る家康の処世術のこれが要訣である。つまり、家康は無理はしたくなかったのである。
とにかく秀吉は、斯んな流言を有害と見做《みな》して、早速取消運動にかかって居る。自ら巡視と称して刀を従者に預けたまま、小姓四五人を連れて大声をあげて家康の陣に行き、徹宵して酒を飲んで快談した。覿面《てきめん》に此の効果はあがって謡言は終熄したが、要するに今後の問題は、持久戦に漸く倦んだ士気を如何に作興するかにある。
此の時小早川隆景進言して言うのに、父の毛利元就が往年尼子義久と対陣した際、小歌、踊り、能、噺《はやし》をやって長陣を張り、敵を退屈させて勝つことが出来たと言った。秀吉も此の言を嘉納し、ここに小田原は戦塵の中にあって歓楽場に変ったのである。
東西南北に小路《こうじ》を割り、広大な書院や数寄屋を建て、庭には草花などを植え、町人は小屋をかけて諸国の名物等を持って来て市をなして居る。京や田舎の遊女も小屋がけをして色めきあったと云うが、恐らく事実は此れ以上に賑ったことと思われる。
その上秀吉は諸将に、その女房達を招き寄せることを勧め、自分でも愛妾の淀君を呼び寄せて居る。淀君が東下の途中、足柄の関で抑留した為、関守はその領地を没収された様な悲喜劇もあった。或時は数寄屋に名器を備え、家康、信雄等を招待して茶の湯会をやって居る。やがて酔が廻り、美妓が舞うにつれ一座は、一段と浮かれ、「とんとろ/\、とろゝなるかまも、とろゝなる釜も、湯がたぎる、たぎる、たぎるやたぎる」と、謡ったところ、釜の蓋もわきかえり、拍子を合せるようであったと云う。
此の情景を描いた甫菴《ほあん》は最後に、「群疑を静め、諸勢を慰め、浮やかにし給ひし才には中々信長公も及ぶまじきか」と批評して居るが、適評である。
一方小田原方でも負けないで、持久の計を立てて居る。
「昼は碁、将棋、双六を打つて遊ぶ所もあり。酒宴遊舞をなすものあり。炉を構へて朋友と数奇に気味を慰もあり。詩歌を吟じ、連歌をなし、音しづかなる所もあり。笛|鼓《つづみ》をうちならし乱舞に興ずる陣所もあり。然《しかれ》ば一生涯を送るとも、かつて退屈の気あるべからず」と『北条五代記』にあるから、此又相当なものである。見たところ此れ位呑気な戦争は、戦国時代を通じて外にあるまい。こうなった以上根気較べの他はない。
小田原城の陥落
戦争のやり方も相手に依りけりだ。いかに籠城が北条の十八番《おはこ》でも、のびのびと屈托のない秀吉に対しては一向利き目がない。それどころか夫子《ふうし》自身、此のお家伝来の芸に退屈し始めて来た。
そこで広沢重信は、城中の士気を振作すべく、精鋭をすぐって、信雄と氏郷の陣を夜襲した。蒲生氏郷自ら長槍を揮って戦い、胸板の下に三四ヶ所|鎗疵《やりきず》を受け、十文字の鎗の柄も五ヶ所迄斬込まれ、有名な鯰尾《なまずお》の兜にも矢二筋を射立てられ乍ら、尚も悪鬼の如く城門に迫って行ったとあるから、兎に角強いものである。小田原陣直後奥州の辺土へ転封され、百万石の知行にあきたらず、たとえ二十万石でも都近くにあらばと、涙を呑んで中原《ちゅうげん》の志を捨てた位の意気は、髣髴《ほうふつ》として覗《うかがわ》れるのである。
此の頃になると、関東方面に散在して居る諸城は、相次いで陥落し、小田原城は愈々孤立無援の状態にある。
六月二十二日には、関東の強鎮八王寺城が上杉景勝、前田利家の急襲に逢って潰《つい》えて居る。石田三成の水攻めにあいながらも、よく堅守して居る忍《おし》城の成田氏長の様な勇将もあったが、小田原城の士気は全く沮喪して仕舞った。
此の年の五月雨《さみだれ》は例年より遙かに長かったらしい。霧を伴い、亦屡々豪雨の降ったことは当時の戦記の到る所に散見して見える。
十重二十重に囲まれ、その上連日の霖雨《りんう》であるから、いくら遊び事をして居たって、城内の諸士が相当に腐ったのは想像出来る。
気持ちが滅入って来ると、疑心暗鬼を生じて来る。前には松田憲秀の様なスパイ事件もあるし、機敏な秀吉は此の形勢を見て、盛んに調略、策動をやった。斯くて「小田原城中群疑蜂起し、不和の岐《ちまた》となつて、兄は弟を疑ひ
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