見えた時、幾度も『宮様《プリンセス》』の話をしました。『宮様《プリンセス》、宮様《プリンセス》』というと、この塾が何か貴族の学校のように、お上品に見えるだろうと思ったからでした。
ベッキイは、セエラを『プリンセス』と呼ぶほどふさわしいものはないと思いました。彼女はいつかの薄霧の日以来、ミンチン女史や、アメリア嬢に隠れて、セエラと親しくなるばかりでした。セエラからお菓子をもらって、屋根裏の自分の部屋に帰る時、ベッキイはいいました。
「このお菓子、気を付けて食べないと大変なのよ、お嬢様。うっかりパン屑なんかと一緒に置いとくと、鼠《ねずみ》が出てきて、食べてしまうのよ。」
「鼠が?」セエラは怖くなりました。「あそこに、鼠がいるの?」
「どっさりいますよ、お嬢様。」ベッキイは平気でした。「大鼠や、廿日鼠《はつかねずみ》がたくさんいるわ。ちょろちょろ出て来て、うるさいけど、慣れれば喧《やかま》しいとも思わないわ。ただ枕の上を飛び越えたりされると、いやですけど。」
「あら。」
「何だって少し慣れれば平気になるのよ。小使娘《こづかいむすめ》に生れると、いろんな事に慣れなけりゃアなりませんよ。油虫なんかよりは、鼠の方がよっぽどましだわ。」
「私もそう思うわ。鼠となら、時がたてばお友達になれるかもしれないけど、油虫となんて、とても仲よくなれないと思うわ。」
時とすると、ベッキイはセエラの部屋に五分といられないことがありました。そんな時には、セエラはちょっと話して、それからベッキイのポケットに何かを入れてやるのが常でした。セエラはよくベッキイに与えるために、量《かさ》のない何か変った食物を探し歩きました。初めて肉饅頭《ミート・パイ》を買って帰った時には、セエラはいいものを見付けてきたと思いました。ベッキイはそれを見ると眼を輝かせて、
「まアお嬢様、これはおいしくて、お腹がふくれて、ほんとに結構ですわ。カステラなんか、それはおいしいけど、じきお腹がすいてしまって――お嬢様なんかには、おわかりにならないかもしれませんけど。」
そのほかベッキイの気に入ったのは、牛肉のサンドウィッチ、巻パン、ボロニア腸詰《ソーセージ》などでした。で今はベッキイも、お腹がすいたり、疲れはてたりするようなことはなくなりました。石炭函もそんなに重いとは思わなくなりました。料理人などにいくらいじめられても、午後にセエラの部屋へ行けると思うと、辛くはありませんでした。セエラの顔さえ見ることが出来れば、おいしいものなどもらわないでもいいくらいでした。
セエラが十一歳のお誕生日を迎える二三週間前、印度の父から一通の手紙が届きました。手紙を見ると、父がいつものような子供らしい元気に充ちて書いたのではないということが、セエラにはわかりました。父は身体があまりよくないらしいのでした。ダイヤモンド鉱山の仕事が忙《せわ》しすぎるのに違いありませんでした。手紙には、こう書いてありました。
「セエラよ、お父さんは、知っての通り事務家ではない。数字や、書類はひどく私を苦しめる。熱があるせいだろう、夜中まで寝られないで、よろよろ歩き廻っている。やっと寝ついたかと思うと、いやな夢ばかりだ。私の小さい奥さんがそばにいてくれたら、きっと何かよい忠告をしてくれるにちがいないと思う。きっと何かいってくれるだろうねエ。」
セエラはませた様子をしていたので、父はよく戯談《じょうだん》に『小さな奥様』と呼んでいたのでした。
父はセエラの誕生日のため、パリイに新しい人形をあつらえたのでした。その人形の衣裳といったら大したものでした。父はセエラに、人形の贈物は好ましいかどうかと訊ねて来ました。それに出したセエラの返事は、なかなかふるったものでした。
「私は、だんだん年をとってきたので、またお人形を戴くまで生きていられないだろうと思います。だから、今度戴くお人形は、最後のお人形となるでしょう。そう思うと、何だかいろいろ考えさせられます。出来るなら『最後の人形』という題の詩でも作りたいのですが、でも、私には詩は書けません。幾度も書いてみたのですが、吹き出すようなものばかりしか出来ませんでした。詠んでみても、ワッツや、コルリッジや、シェイクスピアのように美しくは聞えないのです。どんなお人形も、エミリイの代りにはなりません。が、今度下さる『最後のお人形』は十分大事にするつもりです。皆さんがきっと大騒ぎなさるでしょう。人形のきらいな子なんてありませんもの。もっとも十五くらいの方達は、もう大きくなったから、お人形となんか遊ばないというような顔をしておいでですが、その方達だって、好きでないわけはないのです。」
印度のバンガロウにこの手紙の着いた時、クルウ大尉はちょうど割れそうな頭痛に苦しめられていたのでしたが、手紙をよむ
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