かと思う。
氏の懐いている道徳は「人間性《ヒューマニティ》の道徳」だと自分は解している。が、その内で氏の作品の中で、最も目に着くものは正義に対する愛(Love of justice)ではないかと思う。義《ただ》しさである。人間的な「義しさ」である。「大津順吉」や「和解」の場合にはそれが最も著《いちじる》しいと思う。「和解」は或る意味において「義しさ」を愛する事と、子としての愛との恐るべき争闘とその融合である。が、「和解」を除いた他の作品の場合にも、人間的な義しさを愛する心が、随所に現われているように思われる。
が、前に言った人道主義的な温味があるというのも、今言った「義しさ」に対する愛があるという事ももっと端的に言えば、志賀氏の作品の背後には、志賀氏の人格があると言った方が一番よく判るかも知れない。そして作品に在る温味も力強さも、この人格の所産であると言った方が一番よく判るかも知れないと思う。
志賀氏の作品は、大体において、二つに別《わか》つ事が出来る。それは氏が特種な心理や感覚を扱った「剃刀」「児を盗む話」「范の犯罪」「正義派」などと、氏自身の実生活により多く交渉を持つらしい「母の死と新しい母」「憶ひ出した事」「好人物の夫婦」「和解」などとの二種である。志賀氏の人格的背景は後者において濃厚である。が前者も、その芸術的価値においては決して、後者に劣らないと思う。氏は、その手法と観照において、今の文壇の如何なるリアリストよりも、もっとリアリスチックであり、その本当の心において、今の文壇の如何なる人道主義者よりも、もっと人道主義的であるように思われる。これは少くとも自分の信念である。
志賀氏は、実にうまい短篇を書くと思う。仏蘭西のメリメあたりの短篇、露国のチェホフや独逸のリルケやウィードなどに劣らない程の短篇を描くと思う。これは決して自分の過賞《かしょう》ではない。自分は鴎外博士の訳した外国の短篇集の『十人十話』などを読んでも、志賀氏のものより拙いものは沢山あるように思う。日本の文壇は外国の物だと無条件でいい物としているが、そんな馬鹿な話はないと思う。志賀氏の短篇などは、充分世界的なレヴェルまで行っていると思う。志賀氏の作品から受くるくらいの感銘は、そう横文字の作家からでも容易には得られないように自分は思う。短篇の中でも「老人」は原稿紙なら七八枚のものらしいが
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