、之れは秀吉中心の本だから、いつでも、秀吉が手柄を現すようにかいてある。本当は信長の陣が十三段の備えの内十一段まで崩れたというから、木下秀吉、柴田勝家、森可成の驍将《ぎょうしょう》達も一時は相当やられたらしい。一時は姉川から十町ばかりを退却したというから、信長の旗本も危険に瀕したに違いない。只家康の方が早くも朝倉勢に勝色《かちいろ》を見せ初めたので家康の援軍として控えている稲葉一徹が、家康の方はもう大丈夫と見て、浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城のおさえに残しておいた氏家《うじいえ》卜全と安藤伊賀とが浅井勢の左翼を攻撃した。こうした横槍によって、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を破ったのだ。
 戦後、信長、「義濃三人衆の横槍弱かりせば我が旗本粉骨をつくすべかりしが」と云って稲葉、氏家、安藤三人に感状、名馬、太刀等をやったところを見ると、戦いの様子が分ると思う。それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の将士も不安になって、みだれ始めたのだろう。
 徳川と織田とは、非常に離れて戦っているようであるが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った長刀《なぎなた》のほこ先が信長勢の池田勝三郎信輝の股に当った位だ。後年、人呼んで此の傷を左衛門|疵《きず》と云った。池田と酒井とは、前夜信長の前で、家康を先陣にするかしないかで議論をし合った仲なのだ。其の時酒井は、「兎角の評議は明日の鑓先にある」と云って別れて帰った。だから酒井の長刀が池田の股に当ったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわけで、双方とも前夜の言葉に違《たが》わなかったわけで、「ゆゆしき振舞いかな」と人々感じあったと云う。
 浅井勢の中に於て、其の壮烈、朝倉の真柄直隆に比すべきものは、遠藤喜右衛門尉だ。喜右衛門の事は前にも書いてあるが、喜右衛門は、単身信長に近づいて差違えるつもりであった。彼は首を提《さ》げて血を以って面《おもて》を穢《けが》し髪を振り乱し、織田勢に紛れ込み、「御大将は何処《いずこ》に在《おわ》しますぞ」と探し廻って、信長のいるすぐ側迄来たところ、竹中半兵衛の長子久作|之《これ》を見とがめ、味方にしては傍目《わきめ》多く使うとて、名乗りかけて引き組み、遂に遠藤の首をあげた。久作、かねて朋友に今度《このたび》の戦、我れ必ず遠藤を討取るべしと豪語していた。友人が其の故を問うと、久作曰く、「我れ且て江《ごう》州に遊んで常に遠藤と親しむ、故によくその容貌を知っている。遠藤戦いある毎に、必ず魁《さきがけ》殿《しんがり》を志す、故に我必ず彼を討ち取るべし」と。果して其の言葉の通りであった。
 喜右衛門は、信長と戦端を開く時には、浅井家長久の為めに極力反対したが、いざ戦うとなると、壮烈無比な死に方をしている。浅井家第一の忠臣と云ってもいいだろう。
 浅井方の大将安養寺三郎左衛門は、織田と浅井家の同盟を斡旋《あっせん》した男だ。長政を落さんとして奮戦中馬を鉄砲で射られて落馬したので、遂に擒《いけど》りにせられて信長の前に引き据えられた。信長は安養寺には好意を持っていたとみえ「安養寺久しく」と云った。安養寺、言葉なく、「日頃のお馴染に疾《と》く疾く首をはねられ候え」と云ったが、「汝は仔細ある者なれば先ず若者共のとりたる首を見せよ」と云った。つまり、名前の分らない首の鑑定人にされたわけだ。小姓織田|於直《おなお》の持ち来れる首、安養寺見て「これは私の弟甚八郎と申すものに候」と云った。また、小姓織田於菊の持ち来れる首「これは私の弟彦六と申すものにて候」と申す。信長、「さてさて不憫《ふびん》の次第なり、汝の心底さぞや」と同情した。
 竹中久作が取りたる首を見すれば、
「之れは紛れもなく喜右衛門尉にて候。喜右衛門尉一人|諫《いさ》めをも意見をも申して候。其の他には誰一人久政に一言申すもの候わず。浅井の柱石と頼みし者に候」と云った。
 其の後信長、安養寺に、此の勢いに乗って小谷に押しよせ一気に攻め落さんと思えど如何と聞いた。安養寺笑って、「浅井がために死を急く某《それがし》に戦の進退を問わせ給う殿の御意こそ心得ぬが、答えぬのも臆したるに似ているから答えるが、久政に従って小谷に留守している士《さむらい》が三千余人は居る。長政と共に退却した者も三千余人は候うべし。其の上兵糧、玉薬《たまぐすり》は、年来貯えて乏しからず、半年や一年は持ちこらえ申すべし」と答えた。
 この安養寺の答で、秀吉が小谷城進撃を進言したにも拘わらず、一先ず軍を返した。その後、浅井は尚三年の久しきを保つ事が出来た。或書に、此の時、秀吉の策を用い、直ちに小谷を攻撃したならば、小谷は一日も支える事が出来なかったのに、安養寺が舌頭に於て信長に疑惑の思いを起したのは、忠節比類無しと褒めてある。
 信長は、安養寺が重ねて「首を
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