口ずから喰ったと云うが、後で考えればひどい事をする奴だと思ったに違いない。村重なども、相当重用しながら背かれている。松永久秀などもそうである。
 光秀反逆の原因は、丹波の波多野兄弟を、光秀が、命は請け合ったと云って降服帰順させたのを、信長が殺してしまった事。家康が安土に来るとき、光秀に饗応の役をさせた所、あまりに鄭重に過ぎたので信長が怒って途中で止めさせた事。森蘭丸が信長に近江にある亡父の旧領がほしいと哀願したところ、三年待てと云った。ところがその旧領は、現在光秀の所領なので、三年の裡には、自分の位置が危いことを知って、反逆の意を堅めたと云う説。
 その他いろいろあるが、三年待て云々の話は多分嘘だろう。此の頃の信長|麾下《きか》の武将など、信長勢力の発展と共に、その所領は常にいろいろ変更されているのだから、近江で呉れたものを中国辺で呉れるものと思えば、心配することはないのである。とかく蘭丸と光秀とをいろいろからませている話は、若年にして本能寺で死んだ蘭丸の短生涯を小説化するため、大抵は仕組まれたもので、信長が蘭丸に光秀を折檻させたなども多分嘘である。戦国時代の武将が主君自らの心安立ての打擲《ちょうちゃく》なら、或は辛抱するかも知れないが、小姓などを使って殴られて、寸時も辛抱するわけはないと思う。そんな事があれば、その場で抵抗するか、或は切腹したに違いない。
 しかし、光秀が信長に反《そむ》いたのは、平生の鬱憤を晴すと同時に、あわよくば天下を取ろうとする大志が、あったに違いない。秀吉が、信長の横死を機会に信長の子孫を立てずに自分で天下を取ったのを、光秀はもっと積極的に、自分の私憤を晴すと同時に、天下を志したに違いない。「三日天下」など云う言葉が残っている以上、当時天下の人心は、光秀のそうした大志を知っていたに違いない。京師《けいし》の地子銭を免除したり相当政治的なことをやった以上、信長を殺せば後は野となれ山となれ的な棄鉢でやった事ではない。
 例の愛宕《あたご》山の連歌で、
[#天から4字下げ]ときは今|天《あま》が下知る五月《さつき》かな
 と云う発句を見ても、天下を狙う大志が躍動しているわけである。老獪《ろうかい》なる紹巴《しょうは》は、その時気が付いていたと見え、光秀の敗軍と知るや愛宕山に馳《か》けつけて、知る[#「知る」に傍点]と云う字を消して、その上に再び知
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング