ほどの豪傑、島左近にだって分らなかったのである。
 とにかく、後世からはその首鼠両端の態度を嘲笑されているが、しかし当時は明智の無二の親友でありながら、家を全うすることが出来たのは、松倉、島両家老の処置宜しきを得たためであると云われていた。
 筒井までが、裏切ったのでは、万事休してしまった。筒井の二心を見ぬいて、明智方でも斎藤大八郎、柴田源左衛門等が備えていたが、こうなっては一たまりもなかった。
 先陣の斎藤内蔵介は旗本に合するを得ず、戦場を落ちたが明智方の勇士多く討死した。
 光秀は、一旦勝竜寺城に入り、夜の十二時頃に桂川を渡り深草から小栗栖《おぐるす》にかかって、土民の手にかかった。物騒千万な世の中で、落人《おちうど》となったが最後、誰に殺されても文句がないのであるし、また所在|匪賊《ひぞく》のような連中がいて、戦争があるとすぐ落人狩をやり出すのである。本能寺の変を聴いて堺から伊賀を通って、三河へ帰った家康だって土民のために危かったし、現に家康と同行していた甲斐の旧臣穴山梅雪は土民のためにやられている。
 山崎の合戦の時、近隣の連中が陣見舞に酒肴をもたせて光秀の陣に来た。その中に京都の饅頭屋《まんじゅうや》塩瀬三左衛門と云うものも伺候したが、光秀が献上の粽《ちまき》を、笹をとらずに食ったのでびっくりし、これでは、戦争は敗だと思ったと云う。「※[#「くさかんむり/皎のつくり」、第3水準1−90−79]粽《こうそう》手に在り」云々の詩がある所以だ。塩瀬と云う菓子屋は、その頃からあったものであるらしい。だが砂糖はやっと当時伝来したものだから、現在のようなおいしい饅頭があったかどうか疑問である。その頃、砂糖入りの菓子を南蛮菓子と云った。今の洋菓子と云うのと同じである。
 光秀は、神経質な武将だけに、小胆であろうから、そんな事があったのかも知れない。死ぬ時辞世がある。
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|順逆無[#二]二門[#一]《じゅんぎゃくにもんなく》
五十五年夢《ごじゅうごねんのゆめ》
|大道徹[#二]心源[#一]《たいどうしんげんにてっす》
|覚来帰[#二]一心[#一]《さめきたればいっしんにきす》
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 多分後世の仮作であろうが、光秀も死ぬまで順逆を気にしていただろう。戦争が済んだ時、三七信孝は中川瀬兵衛に近寄って、その戦功をねぎらったが、秀吉は輿《
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