そこにいるのものは一斉に口を開いた。それほど彼の名は聞えている。彼は今川家のキャンサーだといわれている。氏元《うじもと》が豪奢遊蕩《ごうしゃゆうとう》の中心は彼だといわれている。義元の時よりは二、三倍の誅求があるのも、皆彼のためだといわれている。義元恩顧《よしもとおんこ》の忠臣が続々と退転したのも彼のためだといわれている。今川家の心ある人々は彼の名を呪っている。彼の悪評は駿河一国の隅々にまで響いている。その悪評を耳にしないのはおそらく彼自身だけであったかも知れない。実際、右衛門にはなんの罪もないのだが、右衛門の寵幸《ちょうこう》と今川家の退廃とが同時に起ったので、単純な世人はその前に因果関係があると思ったのである。実際彼は一人の無邪気な少年に過ぎない。彼は十三の時に、京の西洞院《にしのとういん》に侘住居《わびずまい》をしていた両親の手から今川家へ児小姓《こごしょう》に召し上げられたので、それ以来は、ただ主君や周囲からせられることを受動的に甘受していただけで、自分の意志を働かしては何一つしたこともないが、氏元の彼に対する寵幸があまりに極端なので、彼が巧みに主君を操っているように見えただけである。
 弥惣次は右衛門の名を聞いた時には、これは待っていたよい機会が来たと思った。無下に剥ぎ取っては傍の者が承知しまいとさっきから手を出しかねていたのであった。彼は急に居丈高《いたけだか》になって、
「右衛門|奴《め》ならなぜ館のお供をせぬのじゃ」とののしった。
 右衛門はこれを聞いて顔色を変えた。実際彼は主君を捨てて逃げて来たのである。府中を落ちて二、三里も行った時、彼らの一群を追いかける織田家の甲冑《かっちゅう》が四、五町後の街道に光るのを見た時に、彼は死を恐れる心よりほかの考慮は何もなかった。彼は馬に乗ることはすこぶる不得手なので、さっきから一行にしばしば乗り遅れている。もし敵に追いつかれたら、いちばん先に片付けられるのは自分でなければならぬと思うと、今にも背中に敵の槍首が突き通りそうで、生きた心持とてはなかったのである。彼は幾度も躊躇した後、左手の林の中に馬を乗り入れるとすぐ馬を乗り放して、それから遮二無二逃げたのである。彼はこういう弱味があるので、ぐうともいえなかった。
「見せしめに剥いでしまえ」と弥惣次が怒鳴った。
 これはすこぶる不当な結論ではあるが、戦国ではこ
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング