なんでも、森田という人は、一年からずうっと文科の首席を通してきた人ですが、卒業する半年前になると、その人の兄さんという人が、「将来文科では、とても飯が食えない。このさい思い切って法科へ変ったらどうか」と、いってきたそうです。実際、文科を出て困っている実例はその頃も多かったとみえ、非常に聡明な森田という人は、すぐ転科をする決心をしたそうです。自分よりは成績もよく、学資も豊富な森田君が、将来の生活問題を気にして転科をするとなると、当時の若杉裁判長も、勢い首を傾けなければなりませんでした。
 その上に、若杉さんは、こうしたできごとに会っていたことがあります。なんでも、高等学校の確か二年生であった頃ですが、若杉さんは、ある晩、春日《かすが》町から伝通院《でんつういん》の方へ富坂《とみざか》を登っていたそうです。すると、半分ばかり、坂を上って右側にあるミルク屋の前に、二、三人、人だかりがしているのです。何かと思って立ち止まると、そのミルク屋の中から、土工体の男が、立派な服装《なり》をした紳士の右の手を、縄で縛って連れ出してくるのです。一組かと思うと、そうした組合せがいくつも後から出てくるのです。
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