。が、それも裁判官としては、あまりに威厳のないことでした。その時に、ふと「泥棒は逃せばよい」という考えが浮びました。若杉さんは、泥棒の不意の襲撃を避けるために、二、三歩後へ退きながら「わあーっ」と力限りの大声を出しました。が、その声は、まったく予期しない結果をひき起しました。若杉さんは、自分の声が終るか終らぬかに、次の部屋から夫の声に怯《おび》えた妻の恐ろしい悲鳴をききました。それと、同時に居間の向うの部屋からは三人の愛児が、おどろいて泣き出しました。
 親子五人の声におどろいたと見え、泥棒はいつの間にかいなくなっていました。むろん、一物《いちもつ》も盗んではいませんでした。
 が、衰弱した身体《からだ》にそうした激動を受けた夫人は、急に高熱が出たのも無理はありません。その翌日は、四十度に近い熱が一日続きました。その上、極度に過敏になった夫人の神経は、些細《ささい》な物音にも怯えるようになりました。主治医は、夫人の生命そのものについても、憂慮を懐くようになりました。
 その上、三人の愛児までが、その夜のできごとがあって以来、妙にものに怯える臆病な子供になりました。
 若杉さん自身も、あの泥棒と相対峙《あいたいじ》した一分間ばかりの、息も詰まるような、不快な、不安な圧迫から、なかなか抜けきることができませんでした。
 若杉さんは、盗賊に見舞われた不快な印象を、まざまざと頭の中に浮べながら、こういうことを考えました。自分は学校を出てから十四、五年の間、罪ということばかりを、考えてきた。そして、その罪に適当な刑罰を課することを、自分の職責としてきた。が、実際自分は本当に罪ということを正当に考えてきたであろうか。それは、あまりに罪を抽象的に考えてきたのではあるまいか。罪人の側からのみ、罪を考えていたのではあるまいか。自分の目の前に畏まっている被告が、いかにも大人しく神妙なのに馴れて、彼らが被害者に及ぼした恐ろしい悪勢力については、なんの考慮をも費やさなかったのではあるまいか。
 そう考えてくると、若杉さんは、自分の過去において下した判決の基礎を為した信念が、だんだん揺《ゆら》いでくるのを感じました。若杉さんを襲った賊、それは罪名からいえば、窃盗未遂でした。が、一家に及ぼした悪影響を考えれば、身の毛もよだつほどです。夫人が、それから受けた激動のために発熱し、その発熱のために衰
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