慮せず、否、ほとんど死に向って吶喊《とっかん》せんとするがごとき行動を現すことしばしばなりき。しかも、彼は、なんらの微傷だに負わず、今もなお勇敢に戦いつつあるが、陸軍当局は、彼に対して、サン・ジョルジェ十字勲章を与うべく進達したる由なり」とあった。
 この新聞の記事は、まだ、彼の勇戦を十分には尽くさなかった。彼は率先してすべての危険を引き受けた。味方の斥候隊が敵と味方との陣地の中央に倒れた時、彼は必ず、収容のために、身を挺して赴《おもむ》いた。ことに彼がラウカの戦線で味方の負傷兵と重砲とを救った語は、ほとんど全軍に知れた話である。
 が、彼はいくら奮戦しても、微傷さえも負わなかった。彼は自殺の短銃を独軍の砲弾にするつもりであった。が、その砲弾は、はなはだ頼りのない凶器であった。彼は、自ら死を追った。が、死は容易に彼の要求を、許さなかったのである。
 そのうちに、彼の死場所が、とうとう得られたと思った。独軍に圧迫された露軍は、ヴィスワの戦線を追われ、湾曲した線をなしながら、だんだん露国の内地に退却して行った。コヴノの要塞にもう二十マイルという地点に接近した時であった。彼の大隊は、ライ麦の黄色く実った丘の上に、夜営を張った。その丘の六百メートルばかり右にも檜《ひのき》のまばらに生えているもう一つの丘があった。そこには、同じ五十五師団の野砲隊が、野営をしていた。翌朝、広い平原の上に夜が明けると、白い霧がいっぱいに、土地を圧していた。彼の隊へは早朝に来るはずの退却命令がどうしても来なかった。大隊長はやや焦り気味で、伝令を続けざまに、後方の師団司令部にやった。
 すると、後方の、針葉樹の林に登った太陽が、濃い霧を透《すか》し始めると、左の丘には、やはり砲軍の姿がほのかに見えていた。隊長は安心した。味方の砲兵もまだ退却していないと思ったが、安心はすぐ裏切られた。その砲軍の一つが、不意に紅の舌を出したかと見る間に、朝の静かな天地を砲声が殷々《いんいん》とどよもして、五、六発の榴弾が、不意に味方の頭上に破裂したのである。味方の砲兵隊は、いつの間にか退却して独軍のそれが入れ替わっていたのであった。
 大隊長はしばらく、失望にとらわれていた。が、この場合、退却するということは、すべての人間を敵の砲火の犠牲にすることであった。彼は直ちに、部下の大隊に戦闘隊形をとらした。イワノウィッチは、今こそ、死ぬべき時だと思った。味方は、ライ麦の畑を踏み荒しながら、散開した。がそれと同時に唸りながら飛んできた榴弾が、彼らの頭上に続けざま十二、三回破裂して、彼らの三分の一を奪ってしまった。
 大隊に付属している三門の機関銃が、敵に対して、弱い、しかしながら緊張した反抗を始めたのであった。
 が、十門に近い敵の野砲は、やすやすとその鏖殺《おうさつ》事業をやっている。六百メートルという近距離の射程では、地面を這う昆虫をさえ逃さなかった。
 榴弾が破裂するごとに、二、三十人の兵卒を砕いた。一町にも足りない散兵線は、十分と立たぬ間にまばらになった。大隊長が、まず倒れた。三人の中隊長のうち、一人は戦死し、二人は傷ついた。
 イワノウィッチは、いちばん左翼にいて、機関銃隊を指揮していた。敵の砲弾は一渡り戦列を荒すと、機関銃隊を最後の目標とした。操縦者がみるみるうちに倒れた。イワノウィッチは、敢然として、自ら機関銃の操射に当ったのである。
 彼は、今日こそ自分の生命をいちばん高価に売ろうと考えた。彼は自分で銃弾を運び、自分で装填《そうてん》し、自分で狙った。見ると、味方の戦線からは銃声がほとんど絶えてしまった。ただ自分が操っている機関銃のみが反抗の悲鳴を続けているのであった。砲弾が、続けざまに彼の身辺で破裂した。
 が、彼はもう気が上った人間のように、機関銃の引金を夢中で引いていた。この時には上官を殺した悔恨も、国家に対する忠節も、なんにもなかった。ただ、熱狂せる戦いがあった。ただ狂猛なる発作があった。敵の砲弾がしばらく途絶えたかと思うと、激しい空気が彼を襲ったと思う間もなく、大音響と共に、彼は大地に投げつけられて昏倒したのである。
 が、その時、味方の危急を知って駆けつけた露軍の野砲隊が応戦の砲火を開いた。左の腕を切断され、右の大腿《ふともも》を砕かれ、死人のごとく横たわっているイワノウィッチの上で、露独の烈しい砲火が交《か》わされたのであった。

          六

 野戦病院の寝台の上で蘇生をしたイワノウィッチは、激しい熱病から覚めた人間のように、清霊《せいれい》な、静かな心持を持っていた。
 彼には、なんらの悔恨もなかった。なんらの興奮もなかった。彼が歓楽の瞬間も、罪悪の瞬間も、戦線で奮闘した瞬間も、すべてがなんの感情も伴わずに、単なる事実として思い出された。もう
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