十字勲章を彼に与えるという通知を受けていた。その勲章には三百ルーブルの年金が付いていた。彼はこの名誉と年金とをもって、元の大学生生活にかえろうと思っていた。そして静かな、煩《わずら》わされない生活を楽しもうと思っていた。
サン・ジョルジェ十字勲章に、彼は十分に相当していた。「勇士イワノウィッチの五つの英雄的行動」といったような話は、戦場美談として、広く流布《るふ》されていた。この病院に来る特志看護婦や、いろいろな団体の慰問使は、有名な勇士イワノウィッチに握手を求めることを忘れなかった。
イワノウィッチは、今朝、なんのわだかまりもない晴々とした心持であった。彼は、廊下に吊るされた籠の中の、駒鳥の快い鳴き声を寝台の上でききながら、太公が彼に勲章をくれる晴れがましい情景《シーン》を想像してみた。
イワノウィッチは、まったく得意であった。彼はのびやかな心持で寝台から下りると、真新しい軍服に着替えた。彼は久し振りに軍服を着たのであった。左の腕がないために、服の袖がだらりとしているのが淋しかった。が、それは、彼ののうのうとした心持を曇らすには足りなかった。彼は、病院の廊下を、大股でゆっくりと歩き始めた。ガラス戸越しに見える芝生には、朝の陽光がいっぱいに溢れていた。彼はこの時、ふと自分の所属連隊の副官のダシコフが、自分に勲章をくれるといい出したことを思い出した。が、本当は、ダシコフがくれたのではない、彼が自分の勲功で堂々と貰うのである。が、イワノウィッチは、心のうちで「俺に勲章をくれたのは、やはり副官のダシコフだ」と思った。どうしてダシコフが、彼に勲章を与えたか。それにはこんな話がある。
二
大学生から、従軍を志願して、士官候補生に採用されたイワノウィッチが、ワルシャワに到着したのは一九一五年の夏の初めであった。
もう、その頃は、ワルシャワを去る五十マイルぐらいのところで、露独の重砲が、すさまじい格闘を続けていた。ワルシャワの街の大きい建物のガラス窓が、砲弾の響きで気味悪く震えることなどがよくあった。
が、ワルシャワの市街は、どんなであったろう! イワノウィッチは、最初ワルシャワを、煤煙と埃《ほこり》と軍隊との街だと思っていた。ところが、停車場から市中へ足を踏み入れると、華やかな初夏の情景《シーン》を備えた街々が、一歩一歩眼前に展開されていくの
前へ
次へ
全15ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング