大和と知合いの間柄だった。大和は、文武の達者で、和歌の名人であったから、元就かねて生擒《いけどり》にしまほしきと言っていたのを光景思出し、大和守に其意を伝えて、之を生擒にした。
 陶入道は、尚西方に遁れたが、味方の兵船は影だになく、遂に大江浦にて小川伝いに山中に入り、其辺りにて自害したと言われている。
 伊加賀民部、山崎|勘解由《かげゆ》等これに殉じた。晴賢の辞世は、
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なにを惜しみなにをうらみむもとよりも
   此の有様の定まれる身に
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 この時同じく殉死した垣並《かきなみ》佐渡守の辞世は、
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|莫[#レ]論[#二]勝敗跡[#一]《しょうはいのあとをろんずるなかれ》
人我暫時情《ひとわれざんじのじょう》
一物不生地《いちぶつふしょうのち》
山寒海水清《やまさむくかいすいきよし》
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 家臣は、晴賢の首を紫の袖に包み、谷の奥に隠しておいたが、晴賢の草履取り乙若というのがつかまった為、其|在所《ありか》が分った。
 弘中三河守は、大聖院へひき上げたが、大元方面へ退いた味方の軍の形勢を見て、折あらば敵
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