大和と知合いの間柄だった。大和は、文武の達者で、和歌の名人であったから、元就かねて生擒《いけどり》にしまほしきと言っていたのを光景思出し、大和守に其意を伝えて、之を生擒にした。
陶入道は、尚西方に遁れたが、味方の兵船は影だになく、遂に大江浦にて小川伝いに山中に入り、其辺りにて自害したと言われている。
伊加賀民部、山崎|勘解由《かげゆ》等これに殉じた。晴賢の辞世は、
[#ここから3字下げ]
なにを惜しみなにをうらみむもとよりも
此の有様の定まれる身に
[#ここで字下げ終わり]
この時同じく殉死した垣並《かきなみ》佐渡守の辞世は、
[#ここから4字下げ]
|莫[#レ]論[#二]勝敗跡[#一]《しょうはいのあとをろんずるなかれ》
人我暫時情《ひとわれざんじのじょう》
一物不生地《いちぶつふしょうのち》
山寒海水清《やまさむくかいすいきよし》
[#ここで字下げ終わり]
家臣は、晴賢の首を紫の袖に包み、谷の奥に隠しておいたが、晴賢の草履取り乙若というのがつかまった為、其|在所《ありか》が分った。
弘中三河守は、大聖院へひき上げたが、大元方面へ退いた味方の軍の形勢を見て、折あらば敵
前へ
次へ
全17ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング