宛《あたか》もよし、九月|晦日《みそか》は、俄《にわ》かに暴風雨が起って、風波が高く、湖のような宮島瀬戸も白浪が立騒いだ。
此の夜は流石《さすが》の敵も、油断をするだろうから、襲撃の機会到れりというので、元就は長男隆元、吉川元春など精鋭をすぐって、毛利家の兵船に分乗し、島の東北岸|鼓《つづみ》の浦へ廻航した。其の時の軍令の一端は次の如しだ。
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一、差物の儀無益にて候。
一、侍は縄しめ襷《だすき》、足軽は常の縄襷|仕《つかまつ》るべく候事。
一、惣人数《そうにんず》共に常に申聞《もうしきけ》候、白布《しろぎれ》にて鉢捲仕るべく候。
一、朝食、焼飯にて仕り候て、梅干相添|申《もうし》、先づ梅干を先へ給《きゅうし》候て、後に焼飯給申すべく候。
一、山坂にて候条、水入腰に付申候事。
一、一切高声仕り候者これあらば、きつと成敗《せいばい》仕るべく候。
一、合言葉、勝つか[#「勝つか」に傍点]とかけるべく候、勝々[#「勝々」に傍点]と答へ申す可く候。
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とても縁起のよい合言葉である。勝つかと言えば勝々と答えるわけである。水軍へ対する軍令の一条に、
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一、一夜陣の儀に候条、乗衆《のりしゅう》の兵糧《ひょうろう》つみ申すまじく候事。
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とある。この厳島合戦は、元就の一夜陣として有名である。が、一夜の中《うち》に毛利一家の興廃を賭けたわけであるが、併し元就の心中には勝利に対する信念の勃々《ぼつぼつ》たるものがあったのではないかと思われる。
元就は鼓の浦へ着く前、今迄船中に伴って来た例の間者の座頭を捕え、「陶への内通大儀なり、汝が蔭にて入道の頭《こうべ》を見ること一日の中にあり、先へ行きて入道を待て」と云って、海に投じて血祭にした。鼓の浦へ着くと、元就「この浦は鼓の浦、上の山は博奕尾《ばくちお》か、さては戦には勝ったぞ」と言った。隆元、元春、御意の通りだと言う。つまり鼓も博奕も共に打つ[#「打つ」に傍点]ものであるから、敵を討つということに縁起をかついだものである。博奕尾は、塔の岡から数町の所で、その博奕尾から進めば、塔の岡の背面に進めるわけである。
小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は之より先、漁船に身を隠して、宮尾城の急を救う為、宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説で、当夜熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を乗り入れて、敵が咎めると、「お味方に参った九州の兵だ」と言って易々と上陸し、塔の岡の坂下に陣して、本軍の鬨《とき》の声のあがるのを待っていた。
即ち毛利の第一軍は、地御前より厳島を迂廻し、東北岸鼓の浦に上陸し、博奕尾の険を越え、塔の岡の陶本陣の背面を攻撃し、第二軍は、宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するを機とし、正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景これを率いた。
第三軍は、村上、来島等の海軍を以て組織し、厳島の対岸を警備し、場合に依《よっ》ては、陶の水軍と合戦を試みんとするものだ。
元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨が頻《しき》りに降ったので、輸送指揮官の児玉|就忠《なりただ》が、元就に唐傘をさしかけようとしたので、元就は拳を以て之を払除けた。
陶の方は、塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は、厳島の神社附近の地に散在し、其の間に何等の統制が無かったらしい。之より先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべき事を進言したけれども、陶用いず、城攻めは、十月|朔日《ついたち》に定《き》まっていた。その朔日の早暁に、元就が殺到したわけである。
元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を尽く二十日市へ漕ぎ帰らしめた。正に生還を期せぬ背水の陣である。吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上るに、其声|自《おのずか》ら鬨の声になって、陶の本陣塔の岡へ殺到した。
陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ馳せ集って防戦に努めたが、俄かに馳せ集った大軍であるから、配備は滅茶苦茶で、兵は多く土地は狭く、駈引自由ならざるところに、元就の諸将、揉《も》みに揉んで攻めつけたから、陶軍早くも浮足たった。
かねて打合せてあった小早川隆景の軍隊は、本軍の鬨の声を聞くと、これも亦|大喊声《だいかんせい》をあげて前面から攻撃した。大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、敵は少し、恐るるに足らず、返せ返せと叫んで奮戦したが、一度浮足たった大軍は、どっと崩れるままに、我先に船に乗らんと海岸を目指して逃出した。晴賢は、自身采配を以て身を揉んで下知したが、一度崩れ立った大軍は、如何《いかん》ともし難く、瞬《またた》く中に塔の岡の本陣は、毛利軍に蹂躙《じゅうりん》されて
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