、お世話になっております」
「左様か。拙者の屋敷も、御覧の通り無人で手広いから、いつなりともお世話するほどに、明日からでもお出《いで》になってはどうか」
「ありがとうございます。そうお願いいたすかも知れませぬ」
万之助も、昔に変らぬ新一郎の優しさに、涙ぐんでいた。
「今度、御上京の目的は、何か修業のためか、それとも仕官でもしたいためか……」と、新一郎がきいた。
万之助は、しばらくの間、黙っていたが、
「それについては、改めてお兄様に、御相談したいと思います」と、いった。万之助の目が急に険しくなったような気がして、新一郎はひやりとした。
その日、姉弟は夕食の馳走になってから、いずれ三、四日のうちに来るといって、水道橋の松平邸内に在る蘆沢家へ帰って行った。
が、三日目の夕方、姉弟の代りに、伊織がひょっこり訪ねて来た。
珍客なので、丁重に座敷へ迎えると、盧沢伊織はいきなり、
「お八重殿が、とうとう辛抱しきれないで、東京へ出て来たではないか」
「……」新一郎は、なんとも返事ができなかった。
「貴公は、姉弟にいつからでも家へ来いといったそうだが、ただ家へ呼ぶなんて、生殺しにしないで、ちゃんと女房にしてやったらどうだ」
「はあ……」
「はあじゃ、いけない。はっきり返事をしてもらいたい。お八重殿も、もう二十三だというではないか。女は、年を取るのが早い。貴公はいくら法律をやっているからといって、人情を忘れたわけではあるまい。昨日も、ちょっとお殿様に申し上げたら、それは是非まとめてやれとの御意であった。昔なら、退引《のっぴき》ならぬお声がかりの婚礼だぞ。どうだ、天野氏!」
新一郎は、返事に窮した。お八重いとしさの思いは、胸にいっぱいである。しかし、もし婚礼した後で、自分が父の敵ということが知れたら、それこそ地獄の結婚になってしまうのだ。こここそ、男子として、踏んばらねばならぬ所だと思ったので、
「御配慮ありがとうございます。あの姉弟のことは、拙者も肉親同様、不憫に思うております。されば家に引き取り、どこまでも世話をいたすつもりでございます。しかし、お八重殿と婚礼のことは、今しばらく御猶予を願いたいのでござりまする」
「頑固だな。権妻《ごんさい》でもあるのか」
「いいえ、そんなことは、ございません」
「それなら、何の差し支えもないわけではないか」
「ちと、思う子細がございまして……」
「世話はするが、婚礼はしないというのか」
「はあ」
伊織は、少し呆れて、新一郎の顔をまじまじと見ていたが、
「貴公も少し変人だな。じゃ、家人同様に面倒は見てくれるのだな」
「はあ、それだけは喜んで……」
「そうか。じゃ、とにかくあの姉弟をこの家へ寄越そう。そのうち、そばに置いてみて、お八重殿が気に入ったら、改めて女房にしてくれるだろうなあ」
新一郎は、少し考えたが、
「そうなるかもしれませぬ」と、眩くようにいった。
五
お八重と万之助が、新一郎の家に来たのは、それから四、五日後であった。
お八重は、新一郎の妻ではなかったが、自然一家の主婦のようになった。
新一郎の身の回りの世話もしたし、寝床の上げ下ろしもした。
新一郎も、お八重を妻のように尊敬もし、愛しもした。駿河町の三井呉服店で、衣装も一式調えてやったし、日本橋小伝馬町の金稜堂で、櫛、笄《こうがい》、帯止めなどの高価なものも買ってきた。
が、新一郎の居間で、二人きりになっても、新一郎は指一つ触れようとはしなかった。
お八重が来てから、二月ばかり経った頃だった。その日、宴会があって、新一郎は、十一時近く微酔を帯びて帰って来た。お八重は、新一郎をまめまめしく介抱し、寝間着に着かえさせて、床に就かせた。
が、新一郎が床に就いた後も、お八重は、いつになく部屋から出て行こうとはしなかった。
蒲団の裾のところに、いつまでも座っていた。
新一郎は、それが気になったので、
「お八重殿、お引き取りになりませぬか」と、言葉をかけた。
とお八重は、それがきっかけになったように、しくしくと泣き始めた。何故、お八重が泣くか、その理由があまりにはっきり分かっているので、新一郎も、急に心が乱れ、堪えがたい悩ましさに襲われた。
いっそ、すべてを忘れて、そのかぼそい身体を抱き寄せてやった方が、彼女も自分も幸福になるのではないかと思ったが、しかし新一郎の鋭い良心が、それを許さなかった。私利私欲のために殺したのではないが、親の敵には違いない。しかも、それを秘して、その娘と契りを結ぶことなどは、男子のなすべきことでないという気持が、彼の愛欲をぐっと抑えつけてしまうのである。
彼は、しばらくはお八重の泣くのにまかせていたが、やがて静かに言葉をかけた。
「お八重殿、そなたの気持は、拙者にもよく
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