自分が下手人であると知られるのも、嫌だった。
 新一郎が悩んでいるうちに、小泉たちは、城下の西の糸ヶ浜から、次々に漁船を雇うて、備前へ逃げてしまった。
 成田頼母の下手人は、小泉、山田、吉川、幸田、久保の五人に決定してしまった。
 しかも、王政維新の世になってみると、佐幕派の頼母の死は、殺され損ということになって、下手人たちを賞賛こそすれ、非難するものはなかった。
 まして、天野新一郎を疑う者などは、一人もない。
 頼母の遺子の万之助もお八重も、新一郎を疑うところか、父なき後は、新一郎を唯一人の相談相手として、頼り始めた。
 新一郎が勤王派であったことは、新一郎の立場を有利にして、明治三年に彼は太政官に召されて、司法省出仕を命ぜられた。
 成田頼母を斬った六人の同志のうち、小泉主膳は長州の藩兵に加わって北越に転戦していたが、長岡城の攻囲戦で倒れた。幸田八五郎は、薩の大山格之助の知遇を得て薩軍に従うていたが、これは会津戦争で討死した。
 久保三之丞は、明治元年の暮近く京都で病死した。
 残った三人のうち、山田甚之助は近衛大尉になっており、吉川隼人は東京府の警部になっていた。
 天野新一郎は、学才があるだけに出世も早く、明治も五年には東京府判事になった。
 が、彼は高松を出てから、成田頼母の遺族を忘れることはなかった。
 許嫁《いいなずけ》同様の、お八重の美しい高島田姿を時々思い出した。お正月や端午の節句などに成田家へ遊びに行くと、酒好きな頼母の相手をさせられたが、そんな時には、きっとお八重が、美しく着飾ってお酌に出た。
 頼母の横死の後も、お八重や万之助は少しも新一郎を疑わなかった。しかし、新一郎は、良心に咎《とが》められて、自分から成田家へ足を遠ざけた。
 お八重の父親の死に加えて、維新の変革が続いて起ったので、新一郎とお八重の縁談は、そのままになってしまった。
(もう、お八重殿は、きっとどこかへ縁付かれたであろう。それともまだ家におられるだろうか)
 新一郎は、東京に出てからも、時々そう考えた。
 お八重に貞節を守っているわけではなかったが、新一郎もまだ結婚しないでいた。先輩や同僚から縁談を勧められたが、なんとなく気が進まなかった。
 明治四年の春に、高松から元の家老の蘆沢伊織が上京して来た。新一郎とも遠縁であったし、成田の家とも遠縁であった。
 新一郎が、水道橋
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