を通じて、済ませていた。
死後に分ったことだが、彼は七月の初旬に二度も、文藝春秋社を訪ねてくれたのだ。二度とも、僕はいなかった。これも後で分ったことだが、一度などは芥川はぼんやり応接室にしばらく腰かけていたという。しかも、当時社員の誰人も僕に芥川が来訪したことを知らしてくれないのだ。僕は、芥川が僕の不在中に来たときは、その翌日には、きっと彼を訪ねることにしていたのだが、芥川の来訪を全然知らなかった僕は、忙しさに取りまぎれて、とうとう彼を訪ねなかったのである。彼の死について、僕だけの遺憾事は、これである。こうなってみると、瓢亭の前で、チラリと僕を見た彼の眼付きは、一生涯僕にとって、悔恨の種になるだろうと思う。
彼が、僕を頼もしいと思っていたのは僕の現世的な生活力だろうと思う。そういう点の一番欠けている彼は、僕を友達とすることをいささか、力強く思ったに違いない。そんな意味で、僕などがもっと彼と往来して、彼の生活力を、刺激したならばと思うが、万事は後の祭りである。
作家としての彼が、文学史的にいかなる位置を占めるかは、公平なる第三者の判断に委すとして、僕などでも次のことは言えると思う。彼のごとき高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であろう。古き和漢の伝統および趣味と欧州の学問趣味とを一身に備えた意味において、過渡期の日本における代表的な作家だろう。我々の次の時代においては、和漢の正統な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから。
彼は、文学上の読書においては、当代その比がないと思う。あの手記の中にあるマインレンデルについて、火葬場からの帰途、恒藤君が僕に訊いた。
「君、マインレンデルというのを知っているか。」
「知らない。君は。」
「僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん。」
山本有三、井汲清治、豊島與志雄の諸氏がいたが、誰も知らなかった。あの手記を読んで、マインレンデルを知っていたもの果たして幾人いただろう。二、三日して恒藤君が来訪しての話では、独逸の哲学者で、ショペンハウエルの影響を受け、厭世思想をいだき、結局自殺が最良の道であることを鼓吹した学者だろうとの事だった。
芥川はいろいろの方面で、多くのマインレンデルを読んでいる男に違いなかった。
数年前、ショオを読破してショオに傾倒し、ショオがいかなる社会主義者よりもマルクスを理解していたことなどを感心していたから、社会科学の方面についての読書などもいい加減なプロ文学者などよりも、もっと深いところまで進んでいたように思う。芥川が、ときどき洩した口吻などによると、Social unrest に対する不安も、いくらか「ボンヤリした不安」の中には入っているようにさえ自分は思う。
彼は、自分の周囲に一つの垣を張り廻していて、嫌な人間は決してその垣から中へは、入れなかった。しかし、彼が信頼し何らかの美点を認める人間には、かなり親切であった。そして、よく面倒を見てやった。また、一度接近した人間は、いろいろ迷惑をかけられながらも、容易には突き放さなかった。
皮肉で聡明ではあったが、実生活にはモラリストであり、親切であった。彼が、もっと悪人であってくれたら、あんな下らないことにこだわらないで、はればれと生きて行っただろうと思う。
「週刊朝日」に出た芥川家の女中の筆記によると、彼は死ぬ少し前、カンシャクを起して花瓶を壊したという。それはウソかほんとうか知らないが、もっと平生花瓶を壊していたらあんなことにはならなかったと思う。あまりに、都会人らしい品のよい辛抱をつづけすぎたと思う。
芥川が、「文藝春秋」に尽してくれた好意は感謝のほかはない。その好意に報いるため、また永久にこの人を記念したいから、「侏儒の言葉」欄は、死後も本誌のつづく限り、存続させたいと思う。未発表の断簡零墨もあるようだし、書簡などもあるから、当分は材料に窮しないし、材料がなくなれば彼に関するあらゆる文章をのせてもいいと思う。芥川にもっとも接近していた小穴隆一君に、編集を托するつもりだ。大町桂月氏を記念するために、「桂月」という雑誌さえあるのだから、本誌一、二頁の「侏儒の言葉欄」を設けるのは、適宜なことだと思う。
なお、ちょっと付言しておくが、彼の最近の文章の一節に「何人をも許し、何人よりも許されんことを望む」という一節があった。文壇人およびその他の人で故人に多少とも隔意の人があったならば、故人のこの気持ちを掬んで、この際釈然としてもらいたいと思う。
底本:『「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻』文藝春秋
1988(昭和63)年1月10日初版発行
底本の親本:「文藝春秋」昭和2年9月号
入力:山田豊
校正:二宮知美
2001年1月18日公開
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