こで拾い上げたのです。」と伯爵はいった。
判事は室内をなお十分調べてから、伯爵に向《むか》って伯爵が見たことや知っていることを尋ねた。
「私はドバルに起《おこ》されたのです。ドバルは手燭《てあかり》を持って、ごらんのように昼間の仕度のままで私の寝台の傍《かたわら》に立っていたんです。もっともドバルは時々|夜更《よふか》しをする癖があったのですがね。ドバルはたいへん気が立っている様子で、小声で「客間に誰か来ている。」というじゃありませんか。なるほど私にも音が聞える。すぐ床から起きてそっとこの廊下《ろうか》[#「廊下」は底本では「廓下」]の戸を開けると、その時あの大広間の境になっている戸がさっと開いて一人の男が現われ、そいつが私に飛びつくや否や、いきなり私の眉間を殴りつけたので私はそのまま気絶してしまったのです。それですから私はその他のことは何にも知らないのです。初めて気がついてみるとドバルがこの通り殺されて倒れていました。」
「あなたはその男を御存知ですか?」
「いいえ、少しも見覚えがありません。」
「ドバルは人に恨まれているようなことはありませんか。」
「ドバルですか、仇敵《かたき》ですか? いやあれは実に立派な人間です。二十年この方私の宅にいて正直な男でした。」
「そうするとやはり盗むつもりで忍び込んだのですね。」
「そうです。泥棒です。」
「すると何か盗まれましたか。」
「いえ、何も。しかし私の娘と姪が、二人の曲者が邸園《ていえん》を逃げる時、大きな包《つつみ》を持っているのをたしかに見たのですから。」
「では二人のお嬢さんにお聞きしましょう。」
令嬢二人は客間に呼ばれた。シュザンヌはまだ顔色も蒼ざめていたが、レイモンドは元気であった。彼女は昨夜自分のしたことを種々《いろいろ》と話した。
「邸園を横切った二人の男は、たしかに大きな包を下げていました。」
「では三番目の男は?」
「何も持っていませんでした。」
「どんな男でしたか?」
「何しろ懐中電灯の光で眼がくらんでいてよく分りませんでしたが、肥って背《せい》の高い男のようでした。」
「あなたにもそう見えましたか?お嬢さん。」と判事はシュザンヌに尋ねた。
「はい……いいえ、あの、」とシュザンヌは考えながら「私には中背で痩せすぎであったように思います。」
判事はなおも犯人の逃げた道筋について、下男たちも呼んでくわしく調べた。調べる時二名の新聞記者も、農夫親子も、邸内《ていない》[#「邸内」は底本では「庭内」]の人々もその場にい合わせた。判事たちを乗せてきた馭者たちも来ていた。犯人はどうしても邸内から外へ逃げ出すわけはないということになった。その時判事はストーブの上にあった皮帽子をとり上げて、これを調べていたが、警部を呼んで小声で、
「おい、警部、君の部下をすぐバール町のメイグレ帽子店にやって調べさせてくれたまえ、この帽子を買った人間を覚えているだろうから。」
馭者の残した強迫状
踏みにじられた草の中に賊の通った跡が判然と分った。黒ずんだ血の塊が二個所ばかりで発見せられた。円柱の角を曲がるとそこは僧院の奥の方で、何事もないらしく、杉葉の散った土の上には身を引きずったような跡もなかった。そんなら傷ついた曲者はどうして令嬢やアルベールやヴィクトールの眼から逃れ去ったのだろうか?巡査や下男たちが藪《やぶ》を分けて探したり、五つ六つある墓石の下を探ったりしたがやっぱり何事もなかった。
判事は鍵を預《あずか》っている庭番に命じて礼拝堂の扉を開けさせた。その礼拝堂というのは昔から崇められたものでそこにある立派な彫刻の人物などは宝物《ほうもつ》であった。しかしその礼拝堂の中には別に隠れ家もなく、またここへ入るならばどんな方法で入るか?
それから例の小門を調べたが、判事はそこで自動車のタイヤの跡がまざまざと残っているのを見た。
「ははあ、負傷した曲者はここで仲間の者と一緒になって逃げたんだな。」
「それや出来ません。」とヴィクトールが叫んだ。
「私が見張りしているのに逃げられるはずはないのです。たしかに曲者はここにいます。」と下男は頑張っている。
判事は暗い顔をして邸へ引き返した。たしかに事件は面白くない、強盗が入って何も盗まれていない。犯人はたしかに内にいて、それが行方不明になっている。
そのうちに帽子屋へやられた巡査が帰ってきた。
「どうだい、帽子屋に逢ってきたかい?」と判事は待ちかねて叫んだ。
「はい、私は主人に逢いましたが、この帽子は馭者に売ったそうです。」
「馭者に?」
「はあ、何でも一人の馭者が店先に馬車を止めて、御客様が入用だから、自動車運転手用の黄色い皮帽子をくれといって、ちょうどこれが一個あったのでそれを差し出すと、馭者は大きさも調べずに、買いとって出ていったそうです。」
「それは何日だい?」
「何日?何日って今日です、今朝の八時です。」
「今朝?君は何をいっているのか?」
「この帽子は今朝売れたのです。」
「しかしこの帽子は今朝この邸園で発見されたんじゃないか。してみれば、それはとにかくその前に買われていなければならん。」
「しかし帽子屋ではたしかに今朝といっていました。」
判事は驚いて[#「驚いて」は底本では「驚いた」]しきりに考えていたがふと飛び上って叫んだ。
「馭者だ!今朝我々を乗せてきた馭者を押《おさ》えてこい。早くとり押えてこい!」
しかしその馭者はもういなかった。口実をつけて自転車を借りて逃げてしまったあとだった。警部はそのことを判事に報告してから、
「これがあいつの帽子と外套です。」
「帽子をかぶらずに出掛けたのか。」
「懐中《ふところ》から黄色い皮の帽子を出して被っていったそうです。」
「黄色い皮の帽子?そんなことがあるもんか、それは現にここにあるじゃないか。」
検事が傍《かたわら》から薄笑いをしながら、
「実に面白い、帽子が二個ある……一個は我々の唯一の証拠であった真物《ほんもの》で、馭者の頭に乗って飛んでいった他の一個は偽物で、それが君の手にある。やあ!こいつは一杯喰わされたね。」
「馭者を捕まえろ!」と判事は呶鳴《どな》った。
「しかしその前に判事さん、もっと気をつけなければならないことがありますよ。まあこの紙切を読んで下さい。これは外套のポケットから出たものです。」
「外套というのは?」
「馭者の残していったものです。」
といいながら検事は四つ折にした紙を判事の前に出した。その紙切には鉛筆の走り書きがしてあった。
「もし首領《かしら》が死んだら、令嬢に仇《あだ》をするぞ。」
怪青年記者
この事件に一同は蒼くなった。
「伯爵」と判事は口を開いて「伯爵決して御心配なさらないで下さい。こんな脅迫《おどかし》があったって我々警察の方で十分警戒しているのですから、令嬢方も決して御心配は入りません。大丈夫です。それから今度は諸君《みなさん》のことですがね。」と判事は新聞記者に向って、「私は諸君《みなさん》方を信用して、この場に諸君《みなさん》たちがおられるのを黙っているのですが……」判事は何か思いついたらしくそのまま言葉を切ってしまって、二人の青年記者の顔を交《かわ》りばんこに見比べていたが、やがてその一人に近づいて、
「君は何という新聞社ですか、身分証明書を持っていますか。」
「ルーアン日報社です。」その記者は身分証明書を出して見せた。判事は次の記者に向って
「そして、君は?」
「僕ですか?」
「さよう、何という新聞社へ勤めているのですか?」
「そうですなあ、判事さん、僕は種々《いろいろ》な新聞に書いているんです……方々の新聞に……」
「身分証明書は?」
「持っていません。」
「すると君の姓名は、何か書類でもありますか?」
「書類なんて持っていません。」
「君は職業を証明すべき書類を持っていないのですね。」
「僕は職業ってありません。」
「すると、君は……」と判事は少し怒った声で叫んだ。「君は偽ってここへ入ってきて我々の調べることをすっかり聞いてしまって、その上姓名までいおうとしないんですね。」
「そうじゃないんです判事さん、だって僕が入ってきた時、あなたは何ともおっしゃらなかったでしょう。だから僕だって断らなかったのです。それにこの通り大勢来ているんですもの、犯人さえ来ているんですもの。」
彼れは物静かに悠々と話している。この記者はまだ若い青年で、その顔色は少女のように薔薇色で、鼻下《びか》にはちび髯があった。しかしその眼は鋭利そうに光っていた。口元にはいつも微笑が浮かんでいた。
判事はなお疑い深い眼で彼を睨んでいた。二人の巡査が彼の前に進んだ。青年は愉快そうに、
「判事さん。あなたは僕を犯人の中の一人だとお思いになるんですね。しかしもし僕が本当に犯人の一人なら、さっきの馭者のように、とっくに逃げてしまったでしょう。考えてみても……」
「冗談もたいていにしたまえ!君の姓名は?」
「イジドール・ボートルレです。」
「職業は?」
「ジャンソン中学校の生徒です。」
判事は驚いたように眼を円くして、
「何、何だって?中学校の生徒……」
「ジャンソン中学です。ポンプ街[#「ポンプ街」は底本では「ボンプ街」]の……」
「おいこら、馬鹿なことをいうな!そんな戯《たわ》けたことをいってもしようがないじゃないか。」
「ですが判事さん、本当なのです。あ、この髯《ひげ》ですね。御安心下さい、これはつけ髯なのです。」
と、いいながらボートルレは鼻下につけていた髯をとって捨てると、その顔はいっそう若くいっそう薔薇色をしていて紛れもなく中学生の顔になった。
「ねえ、これで分ったでしょう?まだ証明が入りますか、じゃ父から寄越したこの手紙を読んでごらんなさい、ほらね、住所に『ジャンソン中学校寄宿舎内イジドール・ボートルレ殿』とあるでしょう。」
判事はこれを信用したのかどうか分らないが、相変《あいかわ》らず難しい顔で、
「君は何しに来たのです。」
「僕はちょうど学校が休みなのです。僕はそれでこっちの方面を旅行しているのです。父が奨めてくれましたから。」
「つけ髯をなぜつけているのですか。」
「あ、僕たちは学校でよく探偵談をしたり、探偵小説を読んでいるもんですから、ただちょっとつけ髯をつけてみたんです。それで中学生じゃ人が信用してくれませんから新聞記者に化けたんです。一週間ばかり面白くない旅行をしていたところ、ちょうど昨晩ルーアンの友達に逢って、今朝この事件が起きたのを聞いたので、二人で馬車を雇ってきたんです。」
ボートルレはたいへん無邪気に話すので、聞いているうちに判事はいくらか興味を持ってその言葉を聞いた。そして前よりは少し穏《おだや》かな調子で、
「ところで君はここへ来て面白いと思いますか。」
「素的ですね、実に面白いです。ね、判事さん出来事を一つ一つ集めて、だんだん事件の真相らしいものが出来上っていくのを見ていると実に愉快です。」
「真相らしいというのは、こりゃ面白い、すると君は今度の事件の真相についていくらか分りそうですか。」
「いいえ。」とボートルレは笑いながら答えた。
「ただ一つ、僕には意見をつくることが出来そうです。またそれからその他にもたいへん大切な考が出来そうです。」
「へえ、君から何か教えてもらえるかもしれんねえ、はずかしいが私にはちっとも分らない。」
「それは判事さん、あなたがまだ十分考える時間がないからですよ。僕はこうしてあなたが種々《いろいろ》調べたことから真相らしいものを考え出すんです。」
「偉い!そうするとこの客間から何か盗まれたんですか。」
「僕はちゃんと知っています。」
「なお偉い!この家の主人よりよく知っている。では犯人の名前も知っているでしょう。」
「それも知っています。」
その場にい合わせた者は皆|吃驚《びっくり》した。検事と新聞記者は椅子を進ませ、伯爵と二人の令嬢は、ボートルレの落ちつき払っているのに感心してなおも耳を傾けた。
「すると犯人の
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