探して下さいよ」というその声は、確かに震えを帯びていた。が、そうした震えを、女性としての強い意地で抑制して、努めて平気を装っているらしかった。
 市九郎は――自分特有の動機を、すっかり失くしていた市九郎は、女の声をきくと、蘇《よみがえ》ったように活気づいた。彼は、自分の意志で働くというよりも、女の意志によって働く傀儡《かいらい》のように立ち上ると、座敷に置いてある桐の茶箪笥に手をかけた。そして、その真白い木目に、血に汚れた手形を付けながら、引出しをあちらこちらと探し始めた。が、女――主人の妾のお弓が帰ってくるまでに、市九郎は、二朱銀の五両包をただ一つ見つけたばかりであった。お弓は、台所から引っ返してきて、その金を見ると、
「そんな端金《はしたがね》が、どうなるものかね」と、いいながら、今度は自分で、やけに引出しを引掻き回した。しまいには鎧櫃《よろいびつ》の中まで探したが、小判は一枚も出てきはしなかった。
「名うての始末屋だから、瓶《かめ》にでも入れて、土の中へでも埋めてあるのかも知れない」そう忌々《いまいま》しそうにいい切ると、金目のありそうな衣類や、印籠を、手早く風呂敷包にした。
 こうして、この姦夫姦婦《かんぷかんぷ》が、浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の家を出たのは、安永《あんえい》三年の秋の初めであった。後には、当年三歳になる三郎兵衛の一子実之助が、父の非業の死も知らず、乳母の懐ろにすやすや眠っているばかりであった。

  二

 市九郎とお弓は、江戸を逐電してから、東海道はわざと避けて、人目を忍びながら、東山道《とうさんどう》を上方へと志した。市九郎は、主殺しの罪から、絶えず良心の苛責を受けていた。が、けんぺき[#「けんぺき」に傍点]茶屋の女中上がりの、莫連者《ばくれんもの》のお弓は、市九郎が少しでも沈んだ様子を見せると、
「どうせ凶状持ちになったからには、いくらくよくよしてもしようがないじゃないか。度胸を据えて世の中を面白く暮すのが上分別さ」と、市九郎の心に、明け暮れ悪の拍車を加えた。が、信州から木曾の藪原《やぶはら》の宿まで来た時には、二人の路用の金は、百も残っていなかった。二人は、窮するにつれて、悪事を働かねばならなかった。最初はこうした男女の組合せとしては、最もなしやすい美人局《つつもたせ》を稼業とした。そうして信州から尾州へかけての宿々で、往来の町人百姓の路用の金を奪っていた。初めのほどは、女からの激しい教唆《きょうさ》で、つい悪事を犯し始めていた市九郎も、ついには悪事の面白さを味わい始めた。浪人姿をした市九郎に対して、被害者の町人や百姓は、金を取られながら、すこぶる柔順であった。
 悪事がだんだん進歩していった市九郎は、美人局からもっと単純な、手数のいらぬ強請《ゆすり》をやり、最後には、切取強盗を正当な稼業とさえ心得るようになった。
 彼は、いつとなしに信濃から木曾へかかる鳥居峠《とりいとうげ》に土着した。そして昼は茶店を開き、夜は強盗を働いた。
 彼はもうそうした生活に、なんの躊躇をも、不安をも感じないようになっていた。金のありそうな旅人を狙って、殺すと巧みにその死体を片づけた。一年に三、四度、そうした罪を犯すと、彼は優に一年の生活を支えることができた。
 それは、彼らが江戸を出てから、三年目になる春の頃であった。参勤交代の北国大名の行列が、二つばかり続いて通ったため、木曾街道の宿々は、近頃になく賑わった。ことにこの頃は、信州を始め、越後や越中からの伊勢参宮の客が街道に続いた。その中には、京から大坂へと、遊山の旅を延すのが多かった。市九郎は、彼らの二、三人をたおして、その年の生活費を得たいと思っていた。木曾街道にも、杉や檜に交って咲いた山桜が散り始める夕暮のことであった。市九郎の店に男女二人の旅人が立ち寄った。それは明らかに夫婦であった。男は三十を越していた。女は二十三、四であっただろう。供を連れない気楽な旅に出た信州の豪農の若夫婦らしかった。
 市九郎は、二人の身形《みなり》を見ると、彼はこの二人を今年の犠牲者にしようかと、思っていた。
「もう藪原の宿まで、いくらもあるまいな」
 こういいながら、男の方は、市九郎の店の前で、草鞋《わらじ》の紐を結び直そうとした。市九郎が、返事をしようとする前に、お弓が、台所から出てきながら、
「さようでございます、もうこの峠を降りますれば半道もございません。まあ、ゆっくり休んでからになさいませ」と、いった。市九郎は、お弓のこの言葉を聞くと、お弓がすでに恐ろしい計画を、自分に勧めようとしているのを覚えた。藪原の宿までにはまだ二里に余る道を、もう何ほどもないようにいいくるめて、旅人に気をゆるさせ、彼らの行程が夜に入るのに乗じて、間道を走って、宿の入口で襲うのが、市九郎の常套
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