にしてたおれることを、何よりも無念と思ったからであった。
「もう二年の辛抱じゃ」と、彼は心のうちに叫んで、身の老衰を忘れようと、懸命に槌を振うのであった。
 冒《おか》しがたき大自然の威厳を示して、市九郎の前に立ち塞がっていた岩壁は、いつの間にか衰残の乞食僧一人の腕に貫かれて、その中腹を穿つ洞窟は、命ある者のごとく、一路その核心を貫かんとしているのであった。

  四

 市九郎の健康は、過度の疲労によって、痛ましく傷つけられていたが、彼にとって、それよりももっと恐ろしい敵が、彼の生命を狙っているのであった。

 市九郎のために非業の横死を遂げた中川三郎兵衛は、家臣のために殺害されたため、家事不取締とあって、家は取り潰され、その時三歳であった一子実之助は、縁者のために養い育てられることになった。
 実之助は、十三になった時、初めて自分の父が非業の死を遂げたことを聞いた。ことに、相手が対等の士人でなくして、自分の家に養われた奴僕《ぬぼく》であることを知ると、少年の心は、無念の憤《いきどお》りに燃えた。彼は即座に復讐の一義を、肝深く銘じた。彼は、馳せて柳生《やぎゅう》の道場に入った。十九の年に、免許皆伝を許されると、彼はただちに報復の旅に上ったのである。もし、首尾よく本懐を達して帰れば、一家再興の肝煎《きもい》りもしようという、親類一同の激励の言葉に送られながら。
 実之助は、馴れぬ旅路に、多くの艱難を苦しみながら、諸国を遍歴して、ひたすら敵《かたき》市九郎の所在を求めた。市九郎をただ一度さえ見たこともない実之助にとっては、それは雲をつかむがごときおぼつかなき捜索であった。五|畿内《きない》、東海、東山、山陰、山陽、北陸、南海と、彼は漂泊《さすらい》の旅路に年を送り年を迎え、二十七の年まで空虚な遍歴の旅を続けた。敵に対する怨みも憤りも、旅路の艱難に消磨せんとすることたびたびであった。が、非業に殪《たお》れた父の無念を思い、中川家再興の重任を考えると、奮然と志を奮い起すのであった。
 江戸を立ってからちょうど九年目の春を、彼は福岡の城下に迎えた。本土を空しく尋ね歩いた後に、辺陲《へんすい》の九州をも探ってみる気になったのである。
 福岡の城下から中津の城下に移った彼は、二月に入った一日、宇佐八幡宮に賽《さい》して、本懐の一日も早く達せられんことを祈念した。実之助は、参拝を終えてから境内の茶店に憩うた。その時に、ふと彼はそばの百姓|体《てい》の男が、居合せた参詣客に、
「その御出家は、元は江戸から来たお人じゃげな。若い時に人を殺したのを懺悔して、諸人済度の大願を起したそうじゃが、今いうた樋田の刳貫《こかん》は、この御出家一人の力でできたものじゃ」と語るのを耳にした。
 この話を聞いた実之助は、九年この方いまだ感じなかったような興味を覚えた。彼はやや急《せ》き込みながら、「率爾《そつじ》ながら、少々ものを尋ねるが、その出家と申すは、年の頃はどれぐらいじゃ」と、きいた。その男は、自分の談話が武士の注意をひいたことを、光栄であると思ったらしく、
「さようでございますな。私はその御出家を拝んだことはございませぬが、人の噂では、もう六十に近いと申します」
「丈《たけ》は高いか、低いか」と、実之助はたたみかけてきいた。
「それもしかとは、分かりませぬ。何様、洞窟の奥深くいられるゆえ、しかとは分かりませぬ」
「その者の俗名は、なんと申したか存ぜぬか」
「それも、とんと分かりませんが、お生れは越後の柏崎で、若い時に江戸へ出られたそうでござります」と、百姓は答えた。
 ここまできいた実之助は、躍り上って欣《よろこ》んだ。彼が、江戸を立つ時に、親類の一人は、敵《かたき》は越後柏崎の生れゆえ、故郷へ立ち回るかも計りがたい、越後は一入《ひとしお》心を入れて探索せよという、注意を受けていたのであった。
 実之助は、これぞ正しく宇佐八幡宮の神託なりと勇み立った。彼はその老僧の名と、山国谷に向う道をきくと、もはや八つ刻を過ぎていたにもかかわらず、必死の力を双脚に籠めて、敵の所在《ありか》へと急いだ。その日の初更近く、樋田村に着いた実之助は、ただちに洞窟へ立ち向おうと思ったが、焦《あせ》ってはならぬと思い返して、その夜は樋田駅の宿に焦慮の一夜を明かすと、翌日は早く起き出でて、軽装して樋田の刳貫へと向った。
 刳貫の入口に着いた時、彼はそこに、石の砕片《かけら》を運び出している石工に尋ねた。
「この洞窟の中に、了海といわるる御出家がおわすそうじゃが、それに相違ないか」
「おわさないでなんとしょう。了海様は、この洞《ほこら》の主も同様な方じゃ。はははは」と、石工は心なげに笑った。
 実之助は、本懐を達すること、はや眼前にありと、欣び勇んだ。が、彼はあわててはならぬと思っ
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