た。が、十間ばかり走り出した時、ふと自分の持っている金も、衣類も、ことごとく盗んだものであるのに気がつくと、跳ね返されたように立ち戻って、自分の家の上り框《がまち》へ、衣類と金とを、力一杯投げつけた。
 彼は、お弓に会わないように、道でない道を木曾川に添うて一散に走った。どこへ行くという当てもなかった。ただ自分の罪悪の根拠地から、一寸でも、一分でも遠いところへ逃れたかった。

  三

 二十里に余る道を、市九郎は、山野の別なく唯一息に馳せて、明くる日の昼下り、美濃国の大垣在の浄願寺《じょうがんじ》に駆け込んだ。彼は、最初からこの寺を志してきたのではない。彼の遁走の中途、偶然この寺の前に出た時、彼の惑乱した懺悔の心は、ふと宗教的な光明に縋《すが》ってみたいという気になったのである。
 浄願寺は、美濃一円真言宗の僧録であった。市九郎は、現往明遍大徳衲《げんおうみょうへんだいとくのう》の袖に縋って、懺悔の真《まこと》をいたした。上人《しょうにん》はさすがに、この極重悪人をも捨てなかった。市九郎が有司《ゆうし》の下に自首しようかというのを止めて、
「重ね重ねの悪業を重ねた汝じゃから、有司の手によって身を梟木《きょうぼく》に晒され、現在の報いを自ら受くるのも一法じゃが、それでは未来永劫、焦熱地獄の苦艱《くげん》を受けておらねばならぬぞよ。それよりも、仏道に帰依《きえ》し、衆生済度《しゅじょうさいど》のために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心じゃ」と、教化した。
 市九郎は、上人の言葉をきいて、またさらに懺悔の火に心を爛《ただ》らせて、当座に出家の志を定めた。彼は、上人の手によって得度《とくど》して、了海《りょうかい》と法名を呼ばれ、ひたすら仏道修行に肝胆を砕いたが、道心勇猛のために、わずか半年に足らぬ修行に、行業《ぎょうごう》は氷霜《ひょうそう》よりも皓《きよ》く、朝には三密の行法を凝らし、夕には秘密念仏の安座を離れず、二|行彬々《ぎょうひんぴん》として豁然智度《かつぜんちど》の心萌し、天晴れの知識となりすました。彼は自分の道心が定まって、もう動かないのを自覚すると、師の坊の許しを得て、諸人救済の大願を起し、諸国雲水の旅に出たのであった。
 美濃の国を後にして、まず京洛の地を志した。彼は、幾人もの人を殺しながら、たとい僧形の姿なりとも、自分が生き永らえているのが心苦しかった。諸人のため、身を粉々に砕いて、自分の罪障の万分の一をも償いたいと思っていた。ことに自分が、木曾山中にあって、行人をなやませたことを思うと、道中の人々に対して、償い切れぬ負担を持っているように思われた。
 行住座臥にも、人のためを思わぬことはなかった。道路に難渋の人を見ると、彼は、手を引き、腰を押して、その道中を助けた。病に苦しむ老幼を負うて、数里に余る道を遠しとしなかったこともあった。本街道を離れた村道の橋でも、破壊されている時は、彼は自ら山に入って、木を切り、石を運んで修繕した。道の崩れたのを見れば、土砂を運び来って繕うた。かくして、畿内から、中国を通して、ひたすら善根を積むことに腐心したが、身に重なれる罪は、空よりも高く、積む善根は土地よりも低きを思うと、彼は今更に、半生の悪業の深きを悲しんだ。市九郎は、些細《ささい》な善根によって、自分の極悪が償いきれぬことを知って、心を暗うした。逆旅《げきりょ》の寝覚めにはかかる頼母《たのも》しからぬ報償をしながら、なお生を貪っていることが、はなはだ腑甲斐ないように思われて、自ら殺したいと思ったことさえあった。が、そのたびごとに、不退転の勇を翻し、諸人救済の大業をなすべき機縁のいたらんことを祈念した。
 享保《きょうほう》九年の秋であった。彼は、赤間ケ関から小倉に渡り、豊前の国、宇佐八幡宮を拝し、山国川《やまくにがわ》をさかのぼって耆闍崛山羅漢寺《きしゃくつせんらかんじ》に詣でんものと、四日市から南に赤土の茫々たる野原を過ぎ、道を山国川の渓谷に添うて、辿った。
 筑紫の秋は、駅路の宿《とま》りごとに更けて、雑木の森には櫨《はじ》赤く爛《ただ》れ、野には稲黄色く稔り、農家の軒には、この辺の名物の柿が真紅の珠を連ねていた。
 それは八月に入って間もないある日であった。彼は秋の朝の光の輝く、山国川の清冽《せいれつ》な流れを右に見ながら、三口から仏坂の山道を越えて、昼近き頃|樋田《ひだ》の駅に着いた。淋しい駅で昼食の斎《とき》にありついた後、再び山国谷《やまくにだに》に添うて南を指した。樋田駅から出はずれると、道はまた山国川に添うて、火山岩の河岸を伝うて走っていた。
 歩みがたい石高道を、市九郎は、杖を頼りに辿っていた時、ふと道のそばに、この辺の農夫であろう、四、五人の人々が罵り騒いでいるのを見た。
 市九郎が近
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