、顔を見合せて、互いに嗤い合うだけであった。が、更に一年経った。市九郎の槌の音は山国川の水声と同じく、不断に響いていた。村の人たちは、もうなんともいわなかった。彼らが嗤笑の表情は、いつの間にか驚異のそれに変っていた。市九郎は梳《くしけず》らざれば、頭髪はいつの間にか伸びて双肩を覆い、浴《ゆあみ》せざれば、垢づきて人間とも見えなかった。が、彼は自分が掘り穿った洞窟のうちに、獣のごとく蠢《うごめ》きながら、狂気のごとくその槌を振いつづけていたのである。
 里人の驚異は、いつの間にか同情に変っていた。市九郎がしばしの暇を窃《ぬす》んで、托鉢の行脚に出かけようとすると、洞窟の出口に、思いがけなく一椀の斎《とき》を見出すことが多くなった。市九郎はそのために、托鉢に費やすべき時間を、更に絶壁に向うことができた。
 四年目の終りが来た。市九郎の掘り穿った洞窟は、もはや五丈の深さに達していた。が、その三町を超ゆる絶壁に比ぶれば、そこになお、亡羊《ぼうよう》の嘆があった。里人は市九郎の熱心に驚いたものの、いまだ、かくばかり見えすいた徒労に合力するものは、一人もなかった。市九郎は、ただ独りその努力を続けねばならなかった。が、もう掘り穿つ仕事において、三昧に入った市九郎は、ただ槌を振うほかは何の存念もなかった。ただ土鼠《もぐら》のように、命のある限り、掘り穿っていくほかには、何の他念もなかった。彼はただ一人|拮々《きつきつ》として掘り進んだ。洞窟の外には春去って秋来り、四時の風物が移り変ったが、洞窟の中には不断の槌の音のみが響いた。
「可哀そうな坊様じゃ。ものに狂ったとみえ、あの大盤石を穿っていくわ。十の一も穿ち得ないで、おのれが命を終ろうものを」と、行路の人々は、市九郎の空しい努力を、悲しみ始めた。が、一年経ち二年経ち、ちょうど九年目の終りに、穴の入口より奥まで二十二間を計るまでに、掘り穿った。
 樋田郷《ひだのごう》の里人は、初めて市九郎の事業の可能性に気がついた。一人の痩せた乞食僧が、九年の力でこれまで掘り穿ち得るものならば、人を増し歳月を重ねたならば、この大絶壁を穿ち貫くことも、必ずしも不思議なことではないという考えが、里人らの胸の中に銘ぜられてきた。九年前、市九郎の勧進をこぞって斥《しりぞ》けた山国川に添う七郷の里人は、今度は自発的に開鑿《かいさく》の寄進に付いた。数人の石工が
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