」と、その男は、必死になって飛びかかってきた。市九郎は、もうこれまでと思った。自分の顔を見覚えられた以上、自分たちの安全のため、もうこの男女を生かすことはできないと思った。
 相手が必死に切り込むのを、巧みに引きはずしながら、一刀を相手の首筋に浴びせた。見ると連れの女は、気を失ったように道の傍に蹲《うずくま》りながら、ぶるぶると震えていた。
 市九郎は、女を殺すに忍びなかった。が、彼は自分の危急には代えられぬと思った。男の方を殺して殺気立っている間にと思って、血刀を振りかざしながら、彼は女に近づいた。女は、両手を合わして、市九郎に命を乞うた。市九郎は、その瞳に見つめられると、どうしても刀を下ろせなかった。が、彼は殺さねばならぬと思った。この時市九郎の欲心は、この女を切って女の衣装を台なしにしてはつまらないと思った。そう思うと、彼は腰に下げていた手拭をはずして女の首を絞《くく》った。
 市九郎は、二人を殺してしまうと、急に人を殺した恐怖を感じて、一刻もいたたまらないように思った。彼は、二人の胴巻と衣類とを奪うと、あたふたとしてその場から一散に逃れた。彼は、今まで十人に余る人殺しをしたものの、それは半白の老人とか、商人とか、そうした階級の者ばかりで、若々しい夫婦づれを二人まで自分の手にかけたことはなかった。
 彼は、深い良心の苛責《かしゃく》にとらわれながら、帰ってきた。そして家に入ると、すぐさま、男女の衣装と金とを、汚らわしいもののように、お弓の方へ投げやった。女は、悠然としてまず金の方を調べてみた。金は思ったより少なく、二十両をわずかに越しているばかりであった。
 お弓は殺された女の着物を手に取ると、「まあ、黄八丈の着物に紋縮緬《もんちりめん》の襦袢だね。だが、お前さん、この女の頭のものは、どうおしだい」と、彼女は詰問するように、市九郎を顧《かえり》みた。
「頭のもの!」と、市九郎は半ば返事をした。
「そうだよ。頭のものだよ。黄八丈に紋縮緬の着付じゃ、頭のものだって、擬物《まがいもの》の櫛《くし》や笄《こうがい》じゃあるまいじゃないか。わたしは、さっきあの女が菅笠を取った時に、ちらと睨んでおいたのさ。※[#「王へん」に「毒」 245−9]瑁《たいまい》の揃いに相違なかったよ」と、お弓はのしかかるようにいった。殺した女の頭のもののことなどは、夢にも思っていなかった市九
前へ 次へ
全25ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング