その日ほとんど太刀打ちをしなかった。自分の前に進んで行く惣八郎が激しく戦ったからである。彼はそうして、終日惣八郎の手痛い戦いを見物するばかりであった。
 二月二十八日は、いよいよ総攻めの日ときまった。城を囲んでいる九州諸藩の軍勢四万三千人のうち、原城《はらじょう》の陥落を望まなかったのは、恐らく甚兵衛一人であったろう。無論、寄手のうちに交っている切支丹宗門の者や徳川幕府に恨《うら》みを含んでいる者は、一揆の長く持ち堪えることを望んでいたかも知れない。しかし、そうした宗教的な政治的な動機を離れて、自分の独自の心で、甚兵衛は原城の陥らぬようにと祈っていた。
「もう、軍《いくさ》も今日|限《ぎ》りじゃ。城方は兵糧がない上に、山田|右衛門作《えもさく》と申す者が、有馬勢に内応の矢文《やぶみ》を射た」という噂が人々の心を引き立たせた。功名も今日|限《ぎ》りじゃ。身上《しんしょう》を起すには今日を逸してはならぬと寄手は勇み立った。
 甚兵衛は今日|限《ぎ》りだと思った。今日を逸して泰平の世になったら、命を助けてもらったほどの恩を返す機会は、絶対に来ないことを知ったからである。
 その日、惣八郎はやはり細川勢の魁《さきがけ》であった。いつも必ず魁をする甚兵衛が、惣八郎に位置を譲ったからである。
 戦いは激しかった。宗徒どもは「さんた、まりや」と口々に叫びながら、刀槍、弓矢をはじめ、鍬、鎌などをさえ手にして戦った。三の丸が落ちてから、城方の敗勢はもはやどうともすることができなかった。素肌の老幼などは、一撃の下に倒された。彼らは倒れると、倒れたままに、十字を切って従容《しょうよう》と神の国へ急いだ。
 惣八郎は手に立ちそうな相手を選んでは、薙《な》ぎ倒した。甚兵衛は、朝来《ちょうらい》惣八郎の手柄を見て歩いた。時々は、彼もまた自ら戦いたい欲望に駆られて手を下したが、こうして大事な機会が過ぎ去るのが惜しまれたので、敵を巧みに避けては、惣八郎の後を追った。
 午《うま》の刻を過ぎた。諸方から焼き立てられた火の手は、とうとう本丸に達した。原城の最後の時が来た。城楼《じょうろう》の焼け落つる音に交って、死んで行く切支丹宗徒の最後の祈祷や悲鳴が聞えた。
 そこには、血と炎との大いなる渦巻があった。流石《さすが》の甚兵衛も惣八郎を見失ってしまった。夕闇の迫って来るに従って、ますます丹《に》の色に燃え盛る原城を見つめながら、彼は不覚の涙を流したのである。

 三月の二日、細川の軍勢は熊本に引き上げた。翌|上巳《じょうし》の日に、従軍の将士は忠利侯から御盃を頂戴した。甚兵衛も惣八郎も、百石の加増を賜った。その日、殿中の廊下で甚兵衛は惣八郎に会った。惣八郎は晴々しい笑顔を見せながら、
「御同様に、おめでたいことでござる」といった。甚兵衛は、戦場で「良い兜でござる」と褒められた時と同じ程度の侮辱を味わった。
 太平の日が始まる。
 が、甚兵衛は、戦中と同じような緊張した心持で、報恩の機会を狙った。宿直を共にする夜などは、惣八郎の身に危難が迫る場合をいろいろに空想した。参勤《さんきん》の折は、道中の駅々にて、なんらかの事変の起るのを、それとなく待ったこともある。
 しかし、惣八郎は無事息災であった。事変の起りやすい狩場などでも、彼は軽捷《けいしょう》に立ち回って、怪我一つ負わなかった。その上に、忠利侯の覚えもよかった。
 二、三年経つうちにも、機会が来ないので、彼は苛《いら》だった。彼は、自分で惣八郎を危難に陥れる機会を作ろうかとさえ考えた。しかしそれには、彼の心に強い反対があった。彼はまた、恩を受けたという事実を忘れようかと、考えてみた。しかし、それが徒労であることはすぐ分かった。家中の若者が一座して、武辺の話が出る時は、必ず島原一揆から例を引いた。ことに、慶長元和《けいちょうげんな》の古武者が死んで行くに従って、島原で手に合うた者が、実戦者としての尊敬をほしいままにするようになった。
「甚兵衛殿は、島原での覚えがあろう。太刀はおよそ何寸が手頃じゃ」などという質問が、よく甚兵衛に向けられた。そのたびに彼は不快な記憶を新たにした。
 その上に、惣八郎は秘蔵の佩刀《はいとう》の目貫《めぬき》に、金の唐獅子の大きい金物を付けていた。それを彼は自慢にしているようであった。誰かに来歴をきかれると、
「これでござるか、天草一揆の折、分捕った十字架《クルス》を鋳直した物でござる」と彼は得意らしい微笑《えみ》を洩した。それ以上の詳細な説明はしなかったが、そばで聞いている甚兵衛は、席にいたたまらぬまでに赤面するのを常とした。
 寛永十八年に、藩主忠利侯が他界して、忠尚侯が封を継いだ。それを唯一の事変として、細川藩には、封建時代の年中行事がつつがなく繰り返されるのみであった。
 甚兵衛が三十の年を迎えた時、こうしていては際限がないと思った。これまでとは全然別な手段を採ろうと決心した。それは虫の好かぬ惣八郎と、努めて昵懇《じっこん》になろうとすることであった。もし、それが成功したら、嫌な人間から恩を受けているのではなくして、昵懇の友人から受けていることになると思った。そして、彼はややそれに成功した。ある口実があったのを機会に、家伝の菊一文字の短刀を惣八郎に贈ろうとした。彼は自分の家に無くてはならぬ宝刀を失うことによって、恩を幾分でも返したというような心持を得たいと思ったのである。が、惣八郎は、真正面からそれを拒絶した。甚兵衛はまたそのことを快く思わなかった。惣八郎は、故意に恩を返させまいとするのだ、彼は一生恩人としての高い位置を占めて、黙々のうちに、一生自分を見下ろそうとするのだと甚兵衛は考えた。それならばよい、意地にも返してみせる、命を助けられたのだから、見事に助け返してやると思った。二人の間は見る見るうちに、また元にかえった。
 しかし、途中で会えば、惣八郎はたいてい言葉を掛けた。甚兵衛は、多くは黙礼をもってこれに対した。そのうちに、二、三年はまた無事に過ぎ去ってしまう。
 金の唐獅子はあいかわらず惣八郎の佩刀《はいとう》の柄《つか》に光って、甚兵衛の気持を悪くした。
 その目貫《めぬき》は、甚兵衛には惣八郎に恩を負うていることを示す永久の表章のように思われた。惣八郎は、故意にその目貫を愛玩するのだとさえ、甚兵衛は思った。
 甚兵衛が四十になった時、甚兵衛と惣八郎とが相番で殿中に詰めていた。その夜、白書院《しろしょいん》の床の青磁《せいじ》の花瓶が、何者の仕業ともなく壊された。細川家の重器の一つであった。甚兵衛は素破事《すわこと》こそと思った。このお咎《とが》めを自分一人で負うて腹を切って、惣八郎の命を助けようと思った。
 しかし、藩主忠尚侯は、彼が意気込んで言上するのを聞いた後、「あれか、大事ない。余の器を出しておけ」と何気なくいわれた。
 彼は余りに苛だたしい時には、いっそ惣八郎を打ち果して死のうかと思った。しかしそれは自分が、恩を返す能力のないことを自白するのと同じだと思った。

 寛文《かんぶん》三年の春が来た。甚兵衛は、明けて四十六の年を迎えた。天草の騒動から数えて二十六年になった。その間、報恩の機会はついに来なかったのである。
 彼は半生の間、ただ一心にそのことばかりを考えていたので、身後《しんご》の計をさえしていなかった。配偶のきさ女との間には、一人の子供さえ無かった。が、恩返しのために、一命を捨てる時などに心残りのないことを結句喜んだ。
 今年の春から、彼は朝ごとに、咳をした。その度にしばらくは止まなかった。彼は初めて、朧げながら死を予想した。前途の短いのを知ってからは、是非|為《な》さなければならぬ報恩の一儀が、いよいよ心を悩ました。
 ところが、時はついに到来した。この年三月二十六日、甚兵衛は、藩老細川志摩から早使《はやづかい》をもって城中に呼び寄せられた。
 志摩は、老眼をしばたたきながら、
「甚兵衛、大切な上意じゃぞ」と前置をして、「このたび、殿の思召《おぼしめ》しによって、佐原惣八郎|放打《はなしうち》の仕手その方に申しつくるぞ」といった。
 甚兵衛ははっと平伏したが、その心のうちにはなんとも知れぬ、感情が汪洋《おうよう》として躍り狂った。彼はやっと心を静めて、
「惣八郎|奴《め》、何様《なによう》の科《とが》によりまして」ときいた。すると志摩はやや声を励まして、
「それは、その方の知ることではない。その方は仕手を務むれば良いのじゃ。相手も天草で手に合うた者じゃ。油断すな」といいながら苦笑した。
 甚兵衛はあわててはならぬと思った。
「とてものことに、殿|直々《じきじき》の上意を」と乞うた。
 志摩は快くそれを許可した。
「至極じゃ」といいながら、志摩は甚兵衛を差し招いて先に立った。
 やがて甚兵衛は、忠尚侯から「志摩が申したこと、良きに計らえ」とのありがたい上意を受けたのである。
 上意討ちの仕手になることは、平時における武士の最大の名誉であった。しかし甚兵衛は、もっと大きい喜びがあった。二十六年狙っていた機会が来た。彼が明暮《あけくれ》望んでいた通り、恩人に大なる危害が迫っている。しかもその危害の糸を引く者は、実に彼自身であった。
 彼は命を捨てて掛ろうと思った。長く自分を苦しめた、圧迫を今日こそ、他に擲《なげう》つことができると思った。
 しかしなお残っているのは、手段の問題であった。彼は最初上意と名乗りかけて、かえって自分が討たれようかと思った。しかし、それでは自分を犠牲にすることが先方に分からぬと思った。彼は二|刻《とき》もの間考え迷った末、次のような手書を認《したた》めた。
「一|書《しょ》進上致しそろ、今日火急の御召《おめし》にて登城致し候処、存じの外にも、そこもとを手に掛け候よう上意蒙り申候。されどそこもとには、天草にて危急の場合を助けられ候恩義|有之《これあり》、容易に刃《やいば》を下し難く候については、此状披見次第|申《さる》の刻《こく》までに早急に国遠《こくおん》なさるべく候。以上」
 そして心利いた仲間を使いに立てた。やがて暮に近い頃、彼は近頃にない晴々しい心地で惣八郎の家を訪うた。
 が、そこにはなんらの混乱の跡がなかった。塵一つ止めてない庭には、打水のあとがしめやかであった。彼は、意外の感に打たれながら、案内を乞うと、玄関へ立ち現れたのは、まぎれもない惣八郎自身であった。惣八郎は物静かな調子で、
「先刻より待ち申してござる」と挨拶した。
 甚兵衛は返す言葉がなかった。主客は、恐ろしい沈黙のうちに座敷へ通った。
 すると、惣八郎の養女が静かに匕首《あいくち》の載っている三宝《さんぼう》を持って現れた。
 惣八郎は居去《いざ》りながら、匕首を取り上げて、甚兵衛に目礼した。
「いざ、介錯《かいしゃく》下されい、御配慮によって、万事心残りなく取り置きました」といいながら、左の腹に静かに匕首《あいくち》の切っ先を含ませた。
 甚兵衛は茫然として立ち上り、茫然として刀を振った。
 しかし、打ち落した首を見ていると、憎悪の心がむらむらと湧いた。報恩の最後の機会を、惣八郎のために無残にも踏み躙《にじ》られたのだと、甚兵衛は思った。
 惣八郎の書置きには、「甚兵衛より友誼《よしみ》をもって自裁《じさい》を勧められたるにより、勝手ながら」とことわってあった。
 君命にも背かず、友誼《よしみ》をも忘れざる者というので、甚兵衛は、一藩の褒め者となった。そして殿から五十石の加増があった。彼はその五十石を、惣八郎から受けた新しい恩として死ぬまで苦悶の種とした。

 その後、享保《きょうほう》の頃になって、天草陣惣八|覚書《おぼえがき》という写本が、細川家の人々に読まれた。そのうちの一節に、「今日|計《はか》らずも甚兵衛の危急を助け申候。されど戦場の敵は私の敵に非ざれば、恩を施せしなど夢にも思うべきに非ず。右後日の為に記《しる》し置候事」とあった。



底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
   1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
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