った。が、しかし一揆らが唯一の命脈と頼む原城《はらじょう》は、要害無双の地であった。搦手《からめて》は、天草灘の波濤が城壁の根を洗っている上に、大手には多くの丘陵が起伏して、その間に、泥深い沼沢が散在した。
板倉内膳正は、十二月十日の城攻めに、手痛き一揆の逆襲を受けて以来、力攻めを捨てて、兵糧攻めを企てた。が、それも、長くは続かなかった。十二月二十八日、江府から松平豆州《まつだいらずしゅう》が上使として下向《げこう》したという情報に接すると、内膳正は烈火のごとく怒って、原城の城壁に、自分の身体と手兵とを擲《な》げ付けようと決心した。
細川家の陣中へも、総攻めの布告が来た。しかし翌二十九日は、冬には希な大雨が降り続いて、沼池《しょうち》の水が溢れた。三十日は、昨日の大雨の名残りで、軍勢の足場を得かねた。
あくる寛永十五年の元朝《がんちょう》は、敵味方とも麗かな初日を迎えた。内膳正は屠蘇《とそ》を汲み乾すと、立ちながら、膳を踏み砕いて、必死の覚悟を示した。
この日は、夜明け方から吹き募《つの》った、烈風が砂塵を飛ばして、城攻めには屈強の日と見えた。正辰《しょうたつ》の刻限から、寄手は、息もっかず、ひしひしと攻め寄った。
神山甚兵衛も、出陣以来、待ちに待った日にあうことを喜んだ。彼は少年の折から、一度は実地に使ってみたいと望んでいた天正祐定《てんしょうすけさだ》の陣刀を振り被りながら、難所を選んで戦うた。
しかし寄手は、散々に打ち悩まされた。内膳正が流れ弾にあたって倒れたのを機会に、総敗軍の姿となって引き退く後を、城兵が城門を開いて、慕うて来た。
この時である。甚兵衛は他の若武者と共に細川勢の殿《しんがり》をして戦いながら退いた。その時に、敵方の一人がしつこく彼につきまとって来た。六十に近い、右の頬に瘤《こぶ》のある老人である。彼は鎧《よろい》の胴ばかりを付けていた。目のうちは異様に輝いて、熱に浮されたように「さんた、まりや」と掛け声をしながら打ち込んでくる。息切れで苦しがりながら、懸命に打ち込んでくる。敵を倒すことも、自分が斬られることも、念頭にない。ただ無性に太刀を振ることが、宗教的儀礼の一部であるように見えた。
甚兵衛も、かかる老人に対しては、なんらの闘志もなかったが、余りにしつこくつきまとうので、仕方なく一刀を肩口に見舞うた。
老人は、血を見ると
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