衛が三十の年を迎えた時、こうしていては際限がないと思った。これまでとは全然別な手段を採ろうと決心した。それは虫の好かぬ惣八郎と、努めて昵懇《じっこん》になろうとすることであった。もし、それが成功したら、嫌な人間から恩を受けているのではなくして、昵懇の友人から受けていることになると思った。そして、彼はややそれに成功した。ある口実があったのを機会に、家伝の菊一文字の短刀を惣八郎に贈ろうとした。彼は自分の家に無くてはならぬ宝刀を失うことによって、恩を幾分でも返したというような心持を得たいと思ったのである。が、惣八郎は、真正面からそれを拒絶した。甚兵衛はまたそのことを快く思わなかった。惣八郎は、故意に恩を返させまいとするのだ、彼は一生恩人としての高い位置を占めて、黙々のうちに、一生自分を見下ろそうとするのだと甚兵衛は考えた。それならばよい、意地にも返してみせる、命を助けられたのだから、見事に助け返してやると思った。二人の間は見る見るうちに、また元にかえった。
 しかし、途中で会えば、惣八郎はたいてい言葉を掛けた。甚兵衛は、多くは黙礼をもってこれに対した。そのうちに、二、三年はまた無事に過ぎ去ってしまう。
 金の唐獅子はあいかわらず惣八郎の佩刀《はいとう》の柄《つか》に光って、甚兵衛の気持を悪くした。
 その目貫《めぬき》は、甚兵衛には惣八郎に恩を負うていることを示す永久の表章のように思われた。惣八郎は、故意にその目貫を愛玩するのだとさえ、甚兵衛は思った。
 甚兵衛が四十になった時、甚兵衛と惣八郎とが相番で殿中に詰めていた。その夜、白書院《しろしょいん》の床の青磁《せいじ》の花瓶が、何者の仕業ともなく壊された。細川家の重器の一つであった。甚兵衛は素破事《すわこと》こそと思った。このお咎《とが》めを自分一人で負うて腹を切って、惣八郎の命を助けようと思った。
 しかし、藩主忠尚侯は、彼が意気込んで言上するのを聞いた後、「あれか、大事ない。余の器を出しておけ」と何気なくいわれた。
 彼は余りに苛だたしい時には、いっそ惣八郎を打ち果して死のうかと思った。しかしそれは自分が、恩を返す能力のないことを自白するのと同じだと思った。

 寛文《かんぶん》三年の春が来た。甚兵衛は、明けて四十六の年を迎えた。天草の騒動から数えて二十六年になった。その間、報恩の機会はついに来なかったのである。
 
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