いと思う。
流石剛頑な山名宗全も、文明五年には齢《よわい》七十である。身体も弱ったのであろう。既に軍務を見るのを好まず、其の子政豊に、一切をまかせて居たのである。此の年の正月、宗全の病※[#「歹+殳」、第4水準2−15−94]が伝えられて居る。
「去《さる》二十一日夜山名入道宗全|入滅畢《にゅうめつしおわる》。其夜同一族大内新助降参方御陣に参候」(『寺社雑事記』)
此の宗全の死も、降服も訛伝であった。併し此の年の三月十九日には、鞍馬|毘沙門《びしゃもん》の化身と世人に畏怖せられて居た宗全も、本当に陣中に急逝したのである。
宗全の死に後《おく》れること約二ヶ月、細川勝元も五月二十二日に病※[#「歹+殳」、第4水準2−15−94]した。時に四十四歳である。即ち東西の両星一時に隕墜《いんつい》したわけである。而も二人の※[#「歹+殳」、第4水準2−15−94]した日は共に、風雨烈しい夜であったと伝う。
戦乱はかくて終熄したと云うわけでない。東軍には尚細川政国、西軍には大内政弘、畠山|義就《よしのり》等闘志満々たる猛将が控えて居る。併し両軍の将士に戦意が揚がらなくなったことは確かだ。
以後小ぜり合いが断続したが、大勢は東軍に有利である。先ず山名政豊は将軍に降り、次いで富樫《とがし》政親等諸将相率いて、東軍に降るに至った。蓋《けだ》し将軍義政が東軍に在って、西軍諸将の守護職を剥奪《はくだつ》して脅したからである。
天文九年十一月、大内政弘や畠山義就は各々その領国に退却して居る。公卿及び東軍の諸将皆幕府に伺候して、西軍の解散を祝したと云う。
欺くて表面的には和平成り、此の年を以て応仁の乱は終ったことになって居る。
併し政弘と云い、義就と云い、一旦その領国を固めて捲土重来上洛の期を謀《はか》って居るのである。亦京都に於ける東西両軍は解散したが、帰国して後の両軍の将士は互いに睨《にら》み合って居る。
つまり文明九年を期して、中央の政争が地方に波及|伝播《でんぱ》し地方の大争乱を捲き起したのである。
戦国時代は此の遠心的な足利幕府の解体過程の中に生れて来たのである。
底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷
※底本は、物を数える際に用いる「ヶ」(区点番号5−86)(「六ヶ年」)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年11月13日作成
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