た翌日、たま/\その月の『文章倶楽部』を読むと、木村毅君の『手相』と云う小説が載っているので、読んで見ると作者即主人公が頗る手相学者なので、私は渡りに舟と未知の木村君に速達を出して、手相を教えてほしいと頼んだ。ところが、木村君の返事が、頗る心細いもので大に失望した。人間の運命が、掌中の紋様に現われるなど云うことは考えられないことであるが、しかし人間の身体についているものだけに、まだ易などよりは、信じられる。殊に私自身手相が当っているので手相が相当信じられるような気がするのである。
 易は、私は一度見て貰った。それは数年前、郵便貯金の通帳を失くしたときである。三百何円しか金額はなかった。私は数日家中を探したがないので、面白半分に易者に見て貰った。二人見て貰った。ところが二人とも判断が合っているので、私は感心した。『失くした物は出るが、形はくずれている』と云うのである。即ち、品物ならば、壊れて出る、貯金の通帳などは、お金は、盗られていると云うのである。
 私はそれを聞いて郵便局へ、通帳の紛失届を出し、通帳を再度下付して貰った所が、参百円以上あった金額は、六拾何円しかないのである。誰かが、私の通帳で二百五十円の金を盗み取ったに違いないのである。私は、易の適中を知って駭いたのである。
 私は、その二百五十円を何人に依って何処の郵便局で盗まれたかを検べるために、貯金局に願って、出入の明細表を作って貰った。ところが、その明細表で見ると、盗まれた形跡は少しもないのである。私は、オヤ/\と思ってよく見ると、私が前月に預け入れた二百五十円と云う金額が、脱落しているのである。即ち、私の預け入れた金が郵便局元帳に付落になっているのである。私は、駭いて預け入れの郵便局で検べて見たところ郵便局には、ちゃんと記帳済になっているので、預金局の誤ちと云うことが、直ぐ判明し、私は相当の手続を取って六十何円の通帳は、参百何円かの通帳に訂正されたのである。即ち、私が通帳を無くしたために、元帳にある記帳漏れが判ったことになり、私は一文も損をしなかったのである。私が感心していた『失くした物は出るが形はくずれている』はスッカリ駄目になったのである。『失くした物は出る、形はくずれているが、正味は変らない』と云わなければ当らなかったのだ。どうも、支那の古代に発見された易の判断は、通帳など云うものの、紛失に適用させ
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