来て、卵と金貨を取っかえてもらうくらいでした。他には誰も来なかったので、紳士は食物《たべもの》一つありませんでした。そこでれいの紳士は、空腹《すきはら》を抱えて何か食べるものを買おうと村へ行って、ある家《うち》に入りました。そして、鳥を一羽売ってもらおうと思って金貨を一枚出しましたが、そこのおかみさんは、どうしてもそれを受取りませんでした。
「私ゃたくさん持っています。」
と言いました。
今度は鰊《にしん》を買おうと思って、寡婦《ごけ》さんのところへ行って金貨を出すと、
「もうたくさんです。」
と言いました、。
「私の家《うち》にゃそれを持って遊ぶような子供はいないし、それにいいもんだと思ってもう三枚もしまってありますからな。」
と言ってことわりました。
かれは今度は百姓家へ行って、パンと取っかえようとしました。けれどもやはり受取ろうとはしません。
「そりゃいらない。だが、お前さんが『キリスト様の御名によって』とおっしゃるなら、ちょっと待ちなされ、家内に話して一片《ひときれ》貰って上げましょうから。」
と言いました。(『キリスト様の御名によって』という言葉は露西亜《ろしや》の乞食や巡礼たちが、物を下さいと言う前に必ず言う言葉で、「御生ですから」とか、「どうかお願いですから」といった意味の言葉です。)
それを聞くと悪魔は唾を吐いて逃げ出しました。キリストの名を唱えたり聞いたりすることは、小刀《ナイフ》で突き倒されるよりも痛くこたえるからでした。
こうしてとうとうパンも手に入れることが出来ませんでした。誰もかも金貨を持っていたので、年よった悪魔はどこへ行っても、金で何一つ買うことは出来ませんでした。みんなたれもが、
「何か他の品物を持って来るか、でなけりゃここへ来て働くか、またはキリスト様の御名によっているものを貰うがいい。」
と言います。
しかし、年よった悪魔は、金より他には何一つ持っていませんでした。働くことはかれ大へんきらいなことだし、「キリスト様の御名によって」物を貰うことなどかれにはどうしたって出来ないことでした。年よった悪魔はひどく腹をたててしまいました。
「おれが金をやると言うのに、それより他の何が欲しいと言うんだ。金さえありゃ何だって買えるし、どんな人夫だって雇えるんだ。」
と悪魔は言いました。しかし、馬鹿たちはそれに耳をかそうとはしませんでした。
「いいや、わしらには金は要らない。わしらにゃ別に払いがあるわけじゃなし、税金も要らないから、貰ったところで使い道がないからな。」
と言うのでした。
年よった悪魔はひもじい腹を抱えて、ゴロリと横になりました。
すると、このことが、イワンの耳に入りました。人民たちは、イワンのところへ来て、こうたずねました。
「どうしたもんでしょう、立派な紳士が倒れています。あの人は、食い飲みもするし着飾ることもすきだが、働くことがきらいで、『キリスト様の御名によって』物を貰うことをしません。ただ誰にでも金貨をくれます。世間じゃはじめのうちはあの人の欲しがるものをくれてやったが、金貨がたくさんになったので、今じゃ誰もあの人にくれてやるものがありません。どうしたもんでしょう、あのままじゃ餓《う》え死んでしまいます。」
イワンはじっと聞いていました。そして、
「いいとも、いいとも。そりゃ、みんなで養ってやるがいい。牧羊者《ひつじかい》のように一軒一軒かわり番こに養ってやるがいい。」
これより外《ほか》に仕方がありませんでした。年よった悪魔は、かわり番こに家々を廻って食事をさせてもらうようになりました。
そのうちに番が来て、イワンの家《うち》へ行くことになったので年よった悪魔は御馳走になりにやって来ました。すると、れいの唖の娘が食事の仕度をしているところでした。
唖娘は今までに、たびたびなまけ者にだまされていました。そんな者に限って、ろくすっぽ受持の仕事はしないで、誰よりも食事に早くやって来て、おまけに人の分まで平げてしまうのでした。そこで娘は手を見て、なまけ者を見分けることにしました。ごつごつした硬い手の人はすぐテイブルにつかせましたが、そうでない人は、食べ残しのものしかくれてやりませんでした。
年よった悪魔はテイブルにつきました。すると唖娘は、早速その手を捉えて、調べにかかりました。ところが手にはちっとも硬いところがありません。すべすべしていて、爪が長く延びていました。唖娘は唸りながら、悪魔をテイブルから引きはなしました。するとイワンのおよめさんが言いました。
「悪く思わないで下さい。あれはごつごつした手を持った人でないと、テイブルにはつかせないんです。でもちょっとお待ちなさい。みんなが食べてしまったら、後でその残りをあげますから。」
年よった悪魔はひどく気を悪くしてしまいました。王様の家《うち》で自分を豚同様に扱っているのです。かれはイワンに言いました。
「誰もかも手を使って働かなきゃならないなんて、お前の国でももっとも馬鹿気《ばかげ》た律法《おきて》だ。こんなことを考えるのも言わばお前が馬鹿だからだ。賢い人は何で働くか知っているか?」
するとイワンは言いました。
「わしらのような馬鹿にどうしてそんなことがわかるもんか。わしらは大抵の仕事は手や背中を使ってやるんだ。」
「だから馬鹿と言うんだ。ところがおれは頭で働く方法を一つ教えてやろう。そうすりゃ手で働くより頭を使った方がどんなに得だかわかるだろう。」
イワンはびっくりしました。そして、
「そうだとすりゃ、なるほど私らを馬鹿だと言うのももっともだ。」
と言いました。
そこで年よった悪魔は言葉をつづけて、
「しかしただ頭で働くのはよういじゃない。おれの手に硬いところがないと言ってお前たちはおれに食物《たべもの》をあてがわないが、頭で働くことはそれよりも百倍もむずかしいと言うことをちっとも知らない。時としちゃ、全く頭がさけてしまうこともある。」
イワンは深く考え込みまし[#「し」は底本では「じ」]た。
「ほう? じゃ、お前さん、お前さん自分自身でどうしてそんなに自分を苦めているんだね。頭が悪い時ゃ、気持はよくないだろうしね。それよりゃ手や背中を使ってもっと楽な仕事したらよさそうなもんだがね。」
しかし悪魔は言いました。
「おれがそんなことをするのも、みんなお前たち馬鹿どもがかわいそうだからだ。もしおれがそうしないと、お前たちゃいつまでたっても馬鹿だ。だが、おれは頭で仕事をしたおかげで、お前たちにそれを教えてやることが出来るんだ。」
イワンはびっくりしました。
「じゃ、わしらを教えてくれ。わしらの手が萎えしびれた時に、そのかわりに頭で仕事をするようにね。」
とイワンは言いました。
悪魔は人民たちに教えることを約束しました。そこでイワンは、あらゆる人たちに頭で働くことを教えることの出来る立派な先生が来たこと、その先生は手よりも頭でやる方がずっと仕事が出来ること、人民たちは残らずこの立派な先生に教わりに来てよく習わなければならないことだのを、ふれさせました。
イワンの国には一つの高い塔がありました。その塔には、てっぺんにまで登ることの出来る階段がついていました。イワンはすべての人民たちが顔をよく見ることが出来るように、その立派な紳士を塔の上へつれて行きました。
そこで、れいの紳士は、塔のてっペンに立って演説をしはじめ、人民たちはかれを見ようとして集まりました。人民たちはこの紳士が手を使わないで頭で働く方法を見せてくれるものと思っていました。しかし、かれはどうしたら働かないで生活《くらし》を立てて行けるかということを、くりかえしくりかえし話しただけでした。人民たちは何が何だか、ちっともわかりませんでした。人民たちは紳士を見、考え、また見ましたが、とうとうおしまいにはめいめいの仕事をするために立ち去りました。
年よった悪魔は塔のてっペンに一日中立っていました。それから二日目もやはりたてつづけにしゃべりました。しかしあまり長くそこに立っていたためにすっかりお腹を空《すか》してしまいました。しかし、たれもが塔の上へ食物《たべもの》を持って行くことなど考えもしませんでした。手で働くよりももっとよく頭で働くことが出来るとしたらパンのよういくらいはもちろんのことだと思ったからでした。
その次の日も、年よった悪魔は塔のてっペンに立ってしゃべりました。人民たちは集まって来て、ちょっとの間立って見ていましたが、すぐ去って行きました。
イワンは人民たちに聞きました。
「どうだな。少しゃ頭で仕事をしはじめたかな。」
すると人民たちは言いました。
「いいや、まだはじめません。先生あいかわらずしゃべりつづけています。」
年よった悪魔はまた次の日も一日塔の上に立っていましたが、そろそろ弱って来て、前へつんのめったかと思うと、あかり取りの窓の側《そば》の、一本の柱へ頭を打っつけました。それを人民の一人が見つけて、イワンのおよめさんに知らせました。するとイワンのおよめさんは、野良に出ているイワンのところへ、かけつけました。
「来てごらんなさい。あの紳士が頭で仕事をやりはじめたそうですから。」
とイワンのおよめさんは言いました。
「ほう? そりゃほんとかな。」
とイワンは言って、馬を向け直して、塔へ行きました。ところがイワンが塔へ行きつくまでに、年よった悪魔はお腹が空いたのですっかり元気はなくなり、ひょろひょろしながら、頭を柱に打ちつけていました。そしてイワンが塔へちょうどついた時、年よった悪魔はつまずいてころぶと、ごろごろと階段をころんで、その一つ一つに頭をゴツンゴツンと打ちつけながら、地べたへ落ちて来ました。
「ほう? やっぱりほんとだったな、人間の頭がさけると言ったのは。でも、こりゃ水腫《みずぶくれ》どころじゃない。こんな仕事じゃ、頭はコブだらけになってしまうだろう。」
とイワンは言いました。
年よった悪魔は階段の一ばん下のところで一つとんぼがえりをして、そのまま地べたへ頭を突っ込みました。イワンはかれがどのくらい仕事をしたか見に行こうとしました。――その時急に地面がぱっとわれて紳士は中へ落っこっちてしまいました。そしてそのあとにはただ一つの穴が残りました。
イワンは頭をかきました。
「まあ何ていやな奴だろう。また悪魔だ。大きなことばかり言ってやがって、きっとあいつらの親爺に違いない。」
とイワンは言いました。
イワンは今でもまだ生きています。人々はその国へたくさん集まって来ます。かれの二人の兄たちも養ってもらうつもりで、かれのところへやって来ました。イワンはそれらのものを養ってやりました。
「どうか食物《たべもの》を下さい。」
と言って来る人には、誰にでもイワンは、
「いいとも、いいとも。一しょに暮すがいい。わしらにゃ何でもどっさりある。」
と言いました。
ただイワンの国には一つ特別なならわしがありました。それはどんな人でも手のゴツゴツした人は食事のテイブルへつけるが、そうでない人はどんな人でも他の人の食べ残りを食べなければならないことです。
底本:「小學生全集第十七卷 外国文藝童話集上卷」興文社、文藝春秋社
1928(昭和3)年12月25日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「一層→いっそう か知ら→かしら 位→くらい 毎→ごと 此の→この 凡て→すべて 大分→だいぶ 一寸→ちょっと て置→てお て見→てみ て貰→てもら 何處→どこ どの道→どのみち 中々→なかなか 殆ど→ほとんど 先づ→まず 又→また 迄→まで 間もなく→まもなく 若し→もし や否や→やいなや 私→わし」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年5月18日作成
2005年12月17
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