とは出来ませんでしょうか。
まあ、こう云ったような意味が、それはそれは長たらしい文句で書いてあったのです」
[#ここで字下げ終わり]
「それでお祖母様も、到頭お会いになった訳ですね」と、私が聞きますと、祖母はうっとりと、昔を思い出したような眼附をしながら、
「会ったことは会ったのです。向うも、やっぱり私の心持が、少しは分ったと見え、芝居茶屋の二階へ舞台姿の維盛卿でやって来たのです。私は蒼黒《あおぐろ》い頬《ほお》のすぼんだ小男の染之助の代りに、美しい維盛卿と逢ったのだから、先方が神妙に控えている中《うち》は好かったけれど、その維盛卿が私の前で手を突いて、何かクドクドと泣いたり口説いたりするのを聞いていると、維盛卿の姿の下から、あの馬道であった、染之助の卑しい姿が覗《のぞ》いているような気がして、真身に相手になってやる気は、どうしても起らないので、私はいい加減に切り上げて帰ったが、先方ではヒドク落胆していたようだったがね」
「それから、どうなりました」私は話の結末を聞こうと思いました。
「それきりでした。京へ行ってからはどうなったか、丸きり消息はありませんでした。尤《もっと》も御維新のドサクサが直ぐ起ったのですからね」と祖母は昔を想い出したような、懐旧的な情懐に沈んで行ったようでありました。私は、祖母の恋物語を聞いて、ある感銘を受けずにはいられませんでした。役者買とかをする現代の貴婦人と云ったような階級とは違って、祖母が役者の醜い肉体には恋せずして、その舞台上の芸――と云うよりも、その芸に依《よ》って活《いか》される、芝居の人物に恋していたと云う、ロマンチックな人間離れをした恋を、面白く思わずにはいられませんでした。世の中に生きている、醜い男性に愛想を尽かした祖母は、何時の間にか、こうして夢現の世界の中の美しい男に対する恋を知っていたのです。私は、こうした恋を為《な》し得《う》る、祖母の芸術的な高雅な人柄に、今更のような懐しみを感じて昔の輝くような美貌《びぼう》を偲《しの》ばすに足る、均斉の正しい上品な、然《しか》し老い凋《しな》びた顔を、しみじみと見詰めていました。
底本:「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」新潮文庫、新潮社
1970(昭和45)年3月25日初版発行
1990(平成2)年1月15日第34刷
初出:「婦人之友」
1919(大正8)年8月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年8月9日作成
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