女様から、手酷く拒絶されたことは申上げますまい。が、その後も貴女様は毎日のようにお見えになりますので、私の無躾な申出が、貴女の気に触《さわ》ったので、貴女が私を思って下さる事には変りはないのだと、私はホット安堵《あんど》の胸を撫《な》でずにはいられませんでした。時期を待たねばならぬ。貴女が自然に私にお心を、打明けて下さるまで、静に待っているより外はないと私は覚悟を決めて、それ以来は、ただ舞台の上だけからじっと貴女を見詰めていたのです。その時から、もう一年半になります。その間、貴女の私を見詰めて下さるお眸は段々輝いて来るばかりで、今にも今にも貴女のお心の中の思は、張り裂けるだろうと、私は考えずにはいられませんでしたのに、貴女は御熱心に舞台の上の私を見詰めて下さるだけで、一寸も一分も私に近づこうとはなさらないのであります。私はこの頃では、貴女のお眸の謎《なぞ》に苦しめられない日はなくなりました。それは、恋の眸ではないのか、ただ上部だけで私の心を悩《なやま》し焼きつくしても、その底には少しも温味も慈悲もない偽のまどわし[#「まどわし」に傍点]の眸であったのかと、私は思い迷うようになりました。私は、この頃では貴女に見詰められることが段々苦しくなりました。貴女のお眸の謎が、私の心にも身にも、堪《た》えられないほど、重々しくヒシヒシと懸って来るのです。私は一日もこの重さに堪えられなくなりました。ところが、今度思いがけなく一座が、京の方へ上る事になりました。段々、出立《しゅったつ》の日が近づいて来るのであります。私は江戸に深い執着も持っていませんが、ただ貴女のお眸の謎を――貴女の本当のお心持を――解かないで、江戸を去るのが、如何《いか》にも心残りであります。今まで、私の舞台をあれほど、見物して下さったお情に、ただ一度でもよいから逢って下さいまし。そして、貴女のお口から、貴女の本当のお心を話して下さいまし。私は、貴女のお口から、お前を愛していたと、云う言葉だけを聞けば、私はそのお言葉を、何よりの餞別《せんべつ》として、江戸を去る積りであります。又、貴女のお口から、お前を愛してはいなかった、と云うお言葉を聞いても私はやっぱり、何よりの餞別として、江戸を去りたいと思うのです。どうか、私の一生の願を聞いてやると思召《おぼしめ》して、ただ一度で宜《よろ》しゅうございますから、お目にかかることは出来ませんでしょうか。
まあ、こう云ったような意味が、それはそれは長たらしい文句で書いてあったのです」
[#ここで字下げ終わり]
「それでお祖母様も、到頭お会いになった訳ですね」と、私が聞きますと、祖母はうっとりと、昔を思い出したような眼附をしながら、
「会ったことは会ったのです。向うも、やっぱり私の心持が、少しは分ったと見え、芝居茶屋の二階へ舞台姿の維盛卿でやって来たのです。私は蒼黒《あおぐろ》い頬《ほお》のすぼんだ小男の染之助の代りに、美しい維盛卿と逢ったのだから、先方が神妙に控えている中《うち》は好かったけれど、その維盛卿が私の前で手を突いて、何かクドクドと泣いたり口説いたりするのを聞いていると、維盛卿の姿の下から、あの馬道であった、染之助の卑しい姿が覗《のぞ》いているような気がして、真身に相手になってやる気は、どうしても起らないので、私はいい加減に切り上げて帰ったが、先方ではヒドク落胆していたようだったがね」
「それから、どうなりました」私は話の結末を聞こうと思いました。
「それきりでした。京へ行ってからはどうなったか、丸きり消息はありませんでした。尤《もっと》も御維新のドサクサが直ぐ起ったのですからね」と祖母は昔を想い出したような、懐旧的な情懐に沈んで行ったようでありました。私は、祖母の恋物語を聞いて、ある感銘を受けずにはいられませんでした。役者買とかをする現代の貴婦人と云ったような階級とは違って、祖母が役者の醜い肉体には恋せずして、その舞台上の芸――と云うよりも、その芸に依《よ》って活《いか》される、芝居の人物に恋していたと云う、ロマンチックな人間離れをした恋を、面白く思わずにはいられませんでした。世の中に生きている、醜い男性に愛想を尽かした祖母は、何時の間にか、こうして夢現の世界の中の美しい男に対する恋を知っていたのです。私は、こうした恋を為《な》し得《う》る、祖母の芸術的な高雅な人柄に、今更のような懐しみを感じて昔の輝くような美貌《びぼう》を偲《しの》ばすに足る、均斉の正しい上品な、然《しか》し老い凋《しな》びた顔を、しみじみと見詰めていました。



底本:「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」新潮文庫、新潮社
   1970(昭和45)年3月25日初版発行
   1990(平成2)年1月15日第34刷
初出:「婦人之友」
   1919(大正8)年8月
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