。愛も仁もない劣等な人間だと云われても平気です。私は姉の無念が、又自分の無念が正当に晴されることを、良民の一人として国家に要求する権利があると思うのです。もし坂下鶴吉が、国家の手に依って、あんな安易な気楽な死を遂げるのであったならば、私はほかにもっと決心があったと思います。私は彼を公判延で瞥見《べっけん》した時に、彼を倒さないまでも、セメて恨みの一撃を与えなかったことを今更痛切に後悔します。
 私が、此の告白を読んだ時に、最初は『坂下鶴吉の奴め、芝居をやるのだな』と、思いました。もうどうせ、死刑は免れないのだから、全く改心して基督教徒になったような顔をして、典獄はじめ周囲の同情を得て、華々しく死刑になったのではないかと思いました。
 此の告白に依ると、此の坂下鶴吉は、一度千葉の監獄で、善行の結果残りの刑期を免除されて放免になったと書いてあります。而も、善行の結果、刑期を短縮された坂下鶴吉は、放免になってから九人の人間を殺して居るのです。千葉監獄の典獄が、此の男の善行を認めなかったならば、私の姉などは少くとも、まだ世の中に生きて居られた筈です。善行に依って、残りの刑期を免除された男が、出獄後直ちに罪を犯したばかりではなく、僅か六ヶ月の間を置いて、私の姉夫婦を殺したのです。坂下鶴吉は、その夜のことを次の様に申して居ります。『二十一日の夜ある家へ忍び込みて、家人を縛りまして細君に金を出せと脅迫いたして居りますと、主人が盗賊盗賊《どろぼうどろぼう》と、大声を発しますから、隣の人に聞えては悪いと思いまして、その場にあり合せたる手拭にて首を締めるのを、細君が見て居りまして、細君が精一杯の大声を発して人殺しと呼びましたから、又其の場に在り合わせた細帯にて遂に二人共殺してしまいました。目の前に夫が締め殺されるのを見て居る細君の心持はどんなに恐ろしく思われたでしょう』と、呑気《のんき》な事を書いてあります。此の犯行の後を見ますと、此の男に人間らしい処が何処にあるのです。而かも、此の男でも、監獄では善行を為し得るのです。私は、こうした男の刑期を、監獄内の善行なるものに依って、短縮した当局者の不明を痛嘆するのですが、然しそれはそれとして置いて、坂下鶴吉の善行がこの程度の善行であった如く、彼の監獄内の信仰なるものも、やっぱりこうした種類の信仰ではなかったかと思うのです。彼が、善行|遊戯《ごっこ》をして、千葉監獄を、まんまと放免されたように、今度はとても免れないと見積って、信仰|遊戯《ごっこ》をして、周囲からやんやと喝采を受けながら、死んだのではないかと思うのです。坂下鶴吉の善行なるものが、何如なるものであったかは、直ぐ正体を現したのですが、今度は彼と一緒に天国もしくは地獄へ同伴するものがないだけに、彼のヤマは以前よりももっと成功したと思います。彼の信仰を、ゴマカシと見、絞首台上で欣々然たる容子をしながらその実は差し迫る死の前に戦慄しただろうと想像することが、私のセメてもの慰めです。
 が、仏教にも悪人成仏と云う言葉があるように、彼坂下鶴吉が、背負い切れぬ罪悪を背負って居たことは、却って真の信仰を得る機縁であるかも知れぬと思います。従って、私は坂下鶴吉の信仰を、心から全然軽蔑することは出来ないのです。彼は、彼の告白する通り、本当の基督教徒となり、基督教徒の信ずるが如く神の手に迎えられて、天国へ行ったかも知れないとも思うのです。彼坂下鶴吉の信仰が本当のものだとすれば、彼自身『人の世の罪の汚れを浄めつつ神のみ国へ急ぐ楽しさ』と、辞世に述べてある如く、天国へ行ける積りであったと思うのです。
 基督教の教義を真実とし、坂下鶴吉の信仰を真実のものだとする時は、坂下鶴吉は、明かに天国へ行って居るのに違いありません。が、坂下鶴吉は天国へ行ったとして、彼の被害者は何処へ行ったでしょう。
 私の義兄にしろ、姉にしろ、平常から何の信仰も持って居ません。また縦令《たとえ》、如何なる信仰を持って居たにしろ、咄嗟に生命を奪われた、死際の刹那を苦悶と忿怒との思いで魂を擾《みだ》したものが極楽なり天国なりへ行かれようとは、思われません。よくは、知りませんが、基督教では死際の懺悔《ざんげ》を、非常に大切なものだとされて居るそうですが、姉夫婦の如く虐殺されては懺悔どころか、後生を願う心も神を求める心も影だに射さなかったと思います。殺される刹那の心は、修羅の心です。地獄の思《おもい》です。もし基督教の教義が本当なれば、地獄の底に陥ちるよりほかはなかったと思います。姉夫婦ばかりではありますまい。彼の為に殺された他の七人の人達も、その人達の信仰はとも角、死際の苦悩の為に天国なり、極楽なりへは、決して行かれなかったと思います。然るに、彼等の生命を奪ったばかりでなく、その魂さえ地獄へ墜《おと》した筈の坂下鶴吉は、そうした罪悪を犯した事が却って懺悔の材料となり、天国へ行けると云うことは、少くとも私にとっては奇怪至極な理窟のように思われます。まるで、坂下鶴吉に殺された者が、脚台になって此の悪人を――基督教的には聖徒を、天国へ昇せてやって居るようではありませんか。基督教徒が、彼等の教旨の為にどんな事をしようが、それは彼等の勝手で、彼等の方には充分な埋窟があるかも知れませんが、現世的な刑罰機関の長《おさ》たる典獄迄が、その便宜を計り、それを奨励するに至っては、被害者達の魂は浮ばれようもないではありませんか。
 昔、ある伊太利《イタリー》人は『愚人聖職に上り、ガリレオ獄中に在り』と云って嗟嘆《さたん》したそうでありますが、もしも天国の存在が本当だとすれば、『加害者天国に在り、被害者地獄に在り』です。宗教の立場から云えば、現世的な法律的な区別は、どうでもいいのでしょうが、国家の司法当局が、その現世的な職務を忘れ、『加害者を天国に送る』事を奨励し、讃美するに至っては、私の如き被害者の遺族は、憤懣に堪えないのであります。
 況《いわ》んや、その信仰の告白を発表し、国家の刑罰機関の効果が、キリスト教の信仰によって蹂躙されたことを公表し、併せて被害者の遺族の感情を傷つくることを許すに至っては、司法政策の上から考えて如何なものでございましょうか。『刑罰の目的は改過遷善に在り』など云う死刑廃止論者などは、自分の妻なり子なりを強盗にでも殺されて見れば、私の憤慨がどんなに自然であり、正当であるかを了解するだろうと思います。
 私はこの書状を了るに当って、はしなくも坂下鶴吉の逮捕を見ずして、娘を殺された悲しみに倒れた私の母の事を思い出しました。母は、死際に「あんな極悪な人間は、この世では捕まらんでも死んだら地獄へ落ちるのじゃ。地獄で、ひどい目に逢うのじゃ」と申して居りましたが、母の考えなどとは丸切り違って、坂下鶴吉は(典獄や弁護士などはこう呼んで居る以上、どんな極悪人でも改心した以上罪人扱いには出来ないかも知れません)この世で捕まった代りに、先きの世では天国へ行ったことになって居ます。私は、母の愚かな期待を思い出すごとに、彼女の無智を憫む潸々《さんさん》たる涙を抑えることは出来ません。
[#地付き](〈中央公論〉大正八年四月号)



底本:「日本探偵小説全集11 名作集1」創元推理文庫、東京創元社
   1996(平成8)年6月21日初版第1刷発行
   1998(平成10)年8月21日再版
初出:「中央公論」
   1919(大正8)年4月号
入力:大野晋
校正:noriko saito
2005年8月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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