っこ》をして、千葉監獄を、まんまと放免されたように、今度はとても免れないと見積って、信仰|遊戯《ごっこ》をして、周囲からやんやと喝采を受けながら、死んだのではないかと思うのです。坂下鶴吉の善行なるものが、何如なるものであったかは、直ぐ正体を現したのですが、今度は彼と一緒に天国もしくは地獄へ同伴するものがないだけに、彼のヤマは以前よりももっと成功したと思います。彼の信仰を、ゴマカシと見、絞首台上で欣々然たる容子をしながらその実は差し迫る死の前に戦慄しただろうと想像することが、私のセメてもの慰めです。
 が、仏教にも悪人成仏と云う言葉があるように、彼坂下鶴吉が、背負い切れぬ罪悪を背負って居たことは、却って真の信仰を得る機縁であるかも知れぬと思います。従って、私は坂下鶴吉の信仰を、心から全然軽蔑することは出来ないのです。彼は、彼の告白する通り、本当の基督教徒となり、基督教徒の信ずるが如く神の手に迎えられて、天国へ行ったかも知れないとも思うのです。彼坂下鶴吉の信仰が本当のものだとすれば、彼自身『人の世の罪の汚れを浄めつつ神のみ国へ急ぐ楽しさ』と、辞世に述べてある如く、天国へ行ける積りであったと思うのです。
 基督教の教義を真実とし、坂下鶴吉の信仰を真実のものだとする時は、坂下鶴吉は、明かに天国へ行って居るのに違いありません。が、坂下鶴吉は天国へ行ったとして、彼の被害者は何処へ行ったでしょう。
 私の義兄にしろ、姉にしろ、平常から何の信仰も持って居ません。また縦令《たとえ》、如何なる信仰を持って居たにしろ、咄嗟に生命を奪われた、死際の刹那を苦悶と忿怒との思いで魂を擾《みだ》したものが極楽なり天国なりへ行かれようとは、思われません。よくは、知りませんが、基督教では死際の懺悔《ざんげ》を、非常に大切なものだとされて居るそうですが、姉夫婦の如く虐殺されては懺悔どころか、後生を願う心も神を求める心も影だに射さなかったと思います。殺される刹那の心は、修羅の心です。地獄の思《おもい》です。もし基督教の教義が本当なれば、地獄の底に陥ちるよりほかはなかったと思います。姉夫婦ばかりではありますまい。彼の為に殺された他の七人の人達も、その人達の信仰はとも角、死際の苦悩の為に天国なり、極楽なりへは、決して行かれなかったと思います。然るに、彼等の生命を奪ったばかりでなく、その魂さえ地獄へ墜《おと》した筈の坂下鶴吉は、そうした罪悪を犯した事が却って懺悔の材料となり、天国へ行けると云うことは、少くとも私にとっては奇怪至極な理窟のように思われます。まるで、坂下鶴吉に殺された者が、脚台になって此の悪人を――基督教的には聖徒を、天国へ昇せてやって居るようではありませんか。基督教徒が、彼等の教旨の為にどんな事をしようが、それは彼等の勝手で、彼等の方には充分な埋窟があるかも知れませんが、現世的な刑罰機関の長《おさ》たる典獄迄が、その便宜を計り、それを奨励するに至っては、被害者達の魂は浮ばれようもないではありませんか。
 昔、ある伊太利《イタリー》人は『愚人聖職に上り、ガリレオ獄中に在り』と云って嗟嘆《さたん》したそうでありますが、もしも天国の存在が本当だとすれば、『加害者天国に在り、被害者地獄に在り』です。宗教の立場から云えば、現世的な法律的な区別は、どうでもいいのでしょうが、国家の司法当局が、その現世的な職務を忘れ、『加害者を天国に送る』事を奨励し、讃美するに至っては、私の如き被害者の遺族は、憤懣に堪えないのであります。
 況《いわ》んや、その信仰の告白を発表し、国家の刑罰機関の効果が、キリスト教の信仰によって蹂躙されたことを公表し、併せて被害者の遺族の感情を傷つくることを許すに至っては、司法政策の上から考えて如何なものでございましょうか。『刑罰の目的は改過遷善に在り』など云う死刑廃止論者などは、自分の妻なり子なりを強盗にでも殺されて見れば、私の憤慨がどんなに自然であり、正当であるかを了解するだろうと思います。
 私はこの書状を了るに当って、はしなくも坂下鶴吉の逮捕を見ずして、娘を殺された悲しみに倒れた私の母の事を思い出しました。母は、死際に「あんな極悪な人間は、この世では捕まらんでも死んだら地獄へ落ちるのじゃ。地獄で、ひどい目に逢うのじゃ」と申して居りましたが、母の考えなどとは丸切り違って、坂下鶴吉は(典獄や弁護士などはこう呼んで居る以上、どんな極悪人でも改心した以上罪人扱いには出来ないかも知れません)この世で捕まった代りに、先きの世では天国へ行ったことになって居ます。私は、母の愚かな期待を思い出すごとに、彼女の無智を憫む潸々《さんさん》たる涙を抑えることは出来ません。
[#地付き](〈中央公論〉大正八年四月号)



底本:「日本探偵小説全集11 名作集1」創元推理文
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