たのかしらと思いながら此処へ入ってきました。でも、今あなたの話を聞いて、自分の返事が間違っていなかったと思います。
栄二 莫迦《ばか》な、あなたに政治のことなどわかるものですか。(立って庭へ下りようとする。庭の向うを、二人の男が、ゆっくり歩いて横切る。栄二座敷へ戻る)姉さん、私はたった今、叔父さんからあなたの身の上について僕の知らなかったことを聞きました。そうしてちょっとの間大変素直な暖いショックを受けました。しかしそれはほんのちょっとの間。実に短い、甘ずっぱい感動でしたよ。あなたは私を……他の誰でもない、この栄二をさえ売ることの出来る人なのですね。
けい ゆく所へ行ってよく考えてらっしゃい、売るとか売らないとかいうのはあなたの仲間同志で仰言しゃることです。私は一度もあなたの仲間になった憶えはありません。
栄二 ははは。こりゃ一本参りました。成程あなたは私の仲間じゃない。あなたは私にとっては寧《むし》ろ敵に属する人だったかもしれない。
けい あなたの……奥さんと連絡のとれる方法を教えておいて下さい。あなたのいらっしゃらない間の、奥さんと子供さんのことは御心配のないようにしておきます。
栄二 折角ですがその御好意はお断わりしましょう。たとえ私がお受けしたとしても、私の家族は、あなたの親切を受けるくらいなら、むしろ餓死を歓迎するでしょう。尤も、くやしまぎれにあなたをつけねらうくらいのことはするかもしれませんがね。しかし、おかしな話ですね。あなたと僕とは、ずうっと昔、やっぱりこの座敷で中国について話し合ったことがあるような気がします。取とめもない、夢のような話でしたが、私達は中国のことを話すことで、随分親しみを感じました。あなたにはお父さんの骨を埋められた土地、私にとっては、父が再び世の中へ出て来た土地、ところが今は、その中国のことをもう一度語ることによって二人は敵味方に別れてしまったのです。時も経《た》ったが人間も変りました。まったくおかしな話ですね。(その時再びさっきの人影が黙々と庭を横切る)さあ、あの人が急いでいるようです。では私は行きます。御機嫌よう。
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栄二出て行く。けい、石のように黙然としている。間。つと立って栄二の後を追おうとする時、うしろの廊下から。
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