いましたが、あの人のこれから先のことを考えてみて、非常に、なんだか楽しい気持がしてきました。
弘 あなたは、私のことを前から御存じだったのですか?
収 あなたのお出でになる少し前から。
弘 私があのひとと結婚したがっていると言うことも?
収 ええ。それからあのひとの母さんがそうさせたがっていると言うことも。
弘 ちょっと待って下さい。それは、また別の問題です。
収 今日、少くとも今日はそう心を決めている筈です。
弘 じゃ、あなたの気持は、もう動かないのですね。
収 ええ。
弘 若し、私がこのまま黙って帰って、二度と此処へやって来ないとしたら。
収 そしたら、みんなが不幸になるだけです、僕も含めて。何にもならないことです。誰も喜ばない。
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あさ子、少し遅れて、真紀。
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あさ子 何の話、面白そうね。
収 あなたの悪口さ。言われた仕返しに。
あさ子 嘘でしょう。
収 (弘に)そうですねえ。
弘 ほんとですよ。
あさ子 ううん、あなたはあたしの悪口は言わないわ。
収 あれです。あんな気でいるんだから。
真紀 さあ、御飯にしましょう。一緒に来て下さい。何も無いんですけど。
収 も少し、此処にいましょう。静かでいい。
弘 ええ、そうしましょう。まるで街ん中でないようですね。それに日が落ちたので涼しくなりましたよ。
あさ子 母さん、もう葭戸《よしど》を入れなくちゃ、駄目ね。
真紀 そうね。梅雨があがると、うんと暑くなるよ、きっと。
弘 入梅はいつでした?
真紀 十二日。
収 あがるのはいつです。
真紀 梅雨三十日って言うから。
あさ子 雷がなる迄よ。
真紀 此の頃は、雷が鳴ったって、なかなかあがりゃしない。
収 いろんなことが変りますね。あさ子さん、ピアノでも弾かないか。聴きたいんだって仰言ってたよ。
弘 ええ、是非一つ。
あさ子 駄目、あたし。
収 駄目だから聴きたいんだろう。巧いのなら他所《よそ》で聴けるよ。
あさ子 自分がさきに弾けばいいでしょう。ホ短調が楽譜なしで弾けるんだから。
収 僕の後では尚更《なおさら》弾けなくなるよ。さあ愚図々々言ってないで。
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真紀、笑い笑い拍手の形。
あさ子、真紀を打つ真似。
真紀、大袈裟に逃げる。
それでも、あさ子はやっぱりピアノの蓋をあける。
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