宗※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]の許《ところ》から、来《きた》る十四日いよいよ上野介の自邸において納めの茶会が催《もよお》される、その後は年内に白金の上杉家の別墅《べっしょ》へ移られるはずだということまで聞きだしてきた。こうなればもう猶予《ゆうよ》はできない。それに十四日は先君《せんくん》の御命日でもあるから、その日を期して決行しようと、即座に一決して、頭領大石内蔵助からそれぞれ一党に通達《つうだつ》された。
 小平太はまた黙りこんでしまった。何だか非常に遠い所にあるように思っていた黒雲が、きゅうに目の前へ覆《おお》い被《かぶ》さってきたのである。が、安兵衛も勘平も冷静にその通告を受けて、もうするだけの用意はしてしまった、いつでも来いと言わんばかりに落着きすましている。二人の前へ対しても、小平太は自分の落着きのないのが恥ずかしかった。どうかしてそれを覚られないように落着いていようと思うけれど、二人と顔を合せていると、何となく心の底まで見透されるような気がしてたまらない。それでも、その明くる日いっぱいは、じっと辛抱して宿に残っていた。が、夕方になると、もうたまらなくなって、兄の許へ母親に逢いに行くという口実《こうじつ》の下《もと》に、ぶらりと家を出てしまった。もちろん、兄の許へなぞ行く気はなかった。こうなればもう行く必要もなし、また事実行かれもしなかった。彼の行かれる所とては、天上天下、ただおしおの家だけであった。
 彼は途を歩きながらも、「何のためにあの女に逢いに行く?」と考えてみずにはいられなかった。「俺はいったいあの女をどうしようと思っているのだ?」それには彼も自分ながら返辞ができなかった。
「可哀そうに」と、しばらくして彼はまた考えつづけた、「あの女も今に及んで俺がどんな心を抱いて、どんな苦しみを嘗《な》めているか、まるで知らないでいるのだ! こんな便りない男を手頼《たよ》りに生きてきて、その男さえこの世にいなくなったら、これから先どうして生きて行くだろう? 考えてみれば、まったく不仕合せの女には相違ない!」
 ふと、「あの女を殺したら?」というような気が心のどこかでした。「そうだ、いっそのこと、あの女を手に懸けて殺したら、俺も本気で死ぬ決心がつくかもしれない」
 が、そう思うと同時に、彼は自分でも自分の残忍な心に吃驚《びっくり》したように飛び上っ
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