ぐに支度をして宿を飛びだした。
が、女の家に近づいた時には、それでもまた勘平に言われた言葉が気になった。といって、そのまま引返す気にもなれないので、うじうじしながら、とうとう女の家の軒端《のきば》をくぐってしまった。
女の方では、そんなこととは知らないから、久しく逢いに来てくれなかった恨みを言うことも忘れて、心《しん》から嬉しそうにしながら、
「久しく見えなんだのは、どこかお悪かったのか。そういえば、お顔の色もようない」と、心配そうに訊ねた。
「なに、そう気に懸けてくれるほどのことでもない」と、小平太は面倒臭そうに言った。彼にはもう当座の嘘を言うのが億劫《おっくう》になっていた。といって、真実《ほんとう》のことも言われなかった。
「だって、心配になりますわ」と、おしおもさすがに言い返した。「見えると言っても見えもせず、たまたま来れば、いやな顔ばかりしていらっしゃるんだものを」
「じゃ、来なければよかったね」と小平太は気短に言った。
すると、女はすぐに気を変えた。「わたしが悪うござんした。お気合いの悪いところへよけいなことばかりお訊ねして、もう何にも申しますまい」
こう言って、おしおは相手の気を逸《そ》らすように、ほかの事に話しを移した。「わたしもあなたの妻になる身で、あんな茶店に出ていたとあっては、後々どんな障《さわ》りになろうもしれない。幸い、さる人のお世話で、今度松坂町のさる御大家の仕立物を一手《ひとて》で縫わせていただくことになりました。まあ、これを見てくださいませ。今もこんなに来ているくらいだから、どうか、わたしのことは安心して――」
「なに松坂町?」と、小平太は思わず聞耳を立てた。「その御大家というのは、何という家だえ?」
「ええ、中島伊勢様とおっしゃる大奥お出入りの御鏡師ということでございますの」と言いながら、何と思ったか、おしおはきゅうに顔を赧《あか》らめた。「何でもそこの嫁御寮《よめごりょう》は、吉良様の御家老とやらから来ておいでじゃということでございますわ」
「ふむ、そうか」と、小平太は腕を拱《こまぬ》いで考えこんだ。そういうことがあるとすれば、いっそここでこの女に大望を打明けて、その手蔓《てづる》で何事かを聞きだすようにしようかとも思ってみた。が、この間兄に言ってしくじったことを思えば、迂濶《うかつ》に打明ける気にもなれなかった。それに、
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