ちらの苦心はひととおりでなかった。が、そんなことにあぐむような彼らでもなかった。日夜その機会を覘《ねら》っていて、それ火事だ! とでも言えば、真先に屋根へ駆け上って、肝心の火事はよそに、向側の吉良邸の動静を目を皿のようにして窺《うかが》ったものだ。
円山会議の後、真先に江戸へ下った堀部安兵衛は、浪人剣客長江長左衛門という触れ込みで、米屋の店にほど遠くない林町五丁目に借宅《しゃくたく》した。前哨《ぜんしょう》たる米屋の店と聯絡《れんらく》を取って、何かの便宜《べんぎ》を計るためであったことはいうまでもない。この借宅には、在府の士小山田庄左衛門を始めとして、七月中安兵衛より一足先に江戸へ下った横川勘平、一足後れてすぐその後から下ってきた、毛利小平太の三人が同居した。そして、横川は三島小一郎、小平太は水原武右衛門と変称した。なお前者は、身分こそ五両三人扶持の徒士《かち》にすぎなかったが、主家没落の際は、赤穂城から里余《りよ》の煙硝蔵に出張していて、籠城《ろうじょう》殉死《じゅんし》の列に漏《も》れたというので、それと聞くや、取る物も取りあえず城下へ駈けつけて、内蔵助の許《ところ》へ呶鳴《どな》りこんだほどの気鋭の士であったから、偵察の任務についても人一倍大胆に働いた。小平太も安兵衛だの勘平だのという気性の勝った連中といっしょにいては、一人ぐずぐずしてはいられない。それに同宿の士の中では比較的小身者であっただけに、横川とはことに仲よくしていたので、同じように仲間小者《ちゅうげんこもの》に身を扮《やつ》して、仇家の偵察にも従事すれば、江戸じゅうを走り廻って、諸所に散在している同士の間に聯絡《れんらく》をも取っていた。で、誰一人小平太の心底を疑うものもなければ、彼自身もそれを疑うような心は微塵《みじん》もなかった。
ところで、十月の半《なかば》ごろまでには、後れて上方を発足した原総右衛門、小野寺十内、間喜兵衛なぞの領袖株《りょうしゅうかぶ》老人連も、岡島|八十《やそ》左|衛門《えもん》、貝賀弥左衛門なぞといっしょに、前後して、江戸へ着いた。最も後れた中村清右衛門、鈴田重八の両人も、十月の三十日には江戸へ入って、安兵衛の長江長左衛門の借宅に同宿することとなった。中村は小山田庄左衛門なぞと同じく百五十石取りの上士で、鈴田は三十石の扶持米を頂いていたものであった。
頭領大石内蔵
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