れとこれとは話が違う。あの女は一生|己《おの》れを扶助《ふじょ》してくれるはずの良人を失った上に、しかもその良人を誰と名指すこともできない。そして、その名指されぬ良人の子を繊弱《かよわ》い女手一つで育てて行かなければならない――これから先永い永い一生の間! あの女としては、そんな思いをして生きて行くよりも、自分の妻として、公然お上のお咎《とが》めに逢いたかったかもしれない。お咎めに逢って、もしお仕置《しおき》になるものならなって死にたかったかもしれない。それを知りながら、せっかく石町《こくちょう》まで出かけて行って、何にも言わずに還ってきた自分はいったいどうしたというのだろう?
「どうかしたら」と、彼はまた一人で考えつづけた、「俺は太夫にそんな内情まで打明けるが恐ろしかったのではないか。そんな内情まで打明ければ、俺は義理にも太夫に背《そむ》くことができなくなる。もちろん、俺は太夫を裏切るような気はない。気はないが、なおそこに一分の余裕を存《そん》しておくために、わざと太夫に逢わずに帰ってきたのではあるまいか。考えてみれば、兄新左衛門のいきさつを同宿の安兵衛に打明けようとして、とうとう打明けずにしまったのもそれだ。打明けずにさえおけば、いつでも兄とした約束を真実《ほんとう》にすることができるというゆとり[#「ゆとり」に傍点]がある。不埓《ふらち》でも、狡猾《ずる》いのでもない、俺はただそのゆとり[#「ゆとり」に傍点]が欲しかったのだ。今日でももし太夫に会って、いつぞやのような優しい言葉でも懸けられようものなら、俺はすぐにもこの人のために死にたくなる。それが怖ろしかったのだ!」
 彼はもうそんな風にして自分の心を見詰めるに堪えられなかった。で、夜はまだ早いが、蒲団を敷いて一人でごろりと横になった。が、どうしても瞼眼《まぶた》が合わないで、とうとうまんじりともせずに一夜を明した。

     十二

 いよいよ十二月十四日、吉良邸討入の当日とはなった。その日は朝から霏々《ひひ》として雪が降っていた。月こそ変れ、先君内匠頭の命日である上に、今生《こんじょう》の名残りというので、大石内蔵助を始め十余名の同志は、かねての牒合《しめしあわ》せに従って、その日早く高輪泉岳寺にある先君の墓碣《ぼけつ》に参拝した。堀部安兵衛も同宿の毛利小平太、横川勘平を代表して、その席に列《つら》なっ
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