った。「分りました。分りました。この不幸な人間のように私もなるかも知れませんね。今では、私の生活もそちらの方へ向いて居ります。南無三、こりゃどうしたのでしょう!」
目の前の光景が一変したので、彼はぎょっとして後へ退った。彼は今やほとんど一つの寝床に触れようとしていたのだ。帷幄も何もない露出《むきだ》しの寝床である。その寝床の上には、ぼろぼろの敷布に蔽われて、何物かが横わっていた。それは何とも物は云わないが、畏ろしい言葉でそれが何物であるかを宣言していた。
この部屋は非常に暗かった、どんな風の部屋であるか知りたいと思う内心の衝動に従って、スクルージはその部屋の中をぐるりと見廻わしては見たが、少しでも精密に見分けようとするには余りに暗かった。戸外の空中に昇りかけた(朝の太陽の)薄白い光が真直に寝床の上に落ちた。するとその寝床の上に、何も彼も剥ぎ取られ、奪われて、誰一人見張っている者もなければ、泣いてやる者もなく、世話の仕手《して》もないままで、この男の死体が横わっていた。
スクルージは精霊の方を見やった。そのびく[#「びく」に傍点]ともしない手は死体の頭部を指していた。覆い物は、一寸それを持ち上げただけでも、スクルージの方で指一本を動かしただけでも、その面部を露出しただろうと思われるほど、いかにもぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]に当てがわれていた。彼はその事について考えた。そうするのがいかにも造作ないことだと云うことにも気が附いた、結局そうしたいとも思って見た。が自分の傍からこの精霊を退散させる力が自分にないと同様に、この覆い物を引《ひ》き剥《め》くるだけの力がどうしても彼にはなかった。
お、冷たい、冷たい、硬直な、怖ろしい死よ、ここに汝の祭壇を設《しつら》えよ。そして、汝の命令のままになるような、さまざまの恐怖をもてその祭壇を装飾せよ。こは汝の領国なればなり。ながらしかし愛されたる、尊敬せられたる、名誉づけられたる頭からは、その髪の毛一本たりとも汝の恐ろしき目的のために動かすことは出来ないし、その目鼻立ちの一つでも見苦しいものにすることは出来ない。何もそれはその手が重くて、放せば再びだらりと垂れるからではない。またその心臓も脈も静かに動かないからではない。否、その手は生前気前よく、鷹揚で、誠実であったからである。その心は勇敢で、暖かで、優しかったからである。そして、その脈搏は真の人間のそれであったからである。斬れよ、死よ、斬れよ! そして、彼の善行がその傷口から飛び出して、永遠の生命を世界中に種蒔くのを見よ!
何等の声がスクルージの耳にこれ等の言葉を囁いたのではない。しかも彼は寝床の上を見やった時に、まざまざとこんな言葉を聞いた。彼は考えた、万一この人間が今生き返ることが出来たとしたら、先ず第一に考えることはどんな事であろうかと。貪欲か、冷酷な取引か、差し込むような苦しい心遣いか。こう云うものは彼を結構な結果に導いてくれた、まったくね!
「この人はこう云うことで私に親切にしてくれた、ああ云うことで優しくしてくれた、そして、その優しい一言を忘れないために、私はこの人に親切にして上げるんだ」と云って呉れるような、一人の男も、一人の女も、一人の子供も持たないで、彼は暗い空虚な家の中に寝ていた。一疋の猫が入口の戸を引掻いていた、炉石の下ではがりがり噛じっている鼠の音がした。これ等のものは死の部屋に在って何を欲するのか、何をそんなに落ち着かないでそわそわしているのか、スクルージはとても考えて見るだけの勇気がなかった。
「精霊殿!」と、彼は云った。「これは恐ろしい所です。ここを離れたところで、ここで得た教訓は忘れませんよ、それだけは私の云うことを信じて下さい。さあ参りましょう!」
ところが、精霊はまだじっと一本の指でその頭部を指していた。
「もう解りました」と、スクルージは返辞をした。「私も出来ればそうしたいのですがね。ですが、私にはそれだけの力がないのです、精霊殿。それだけの力がないのです。」
またもや精霊は彼の方を見ているらしかった。
「この男が死んだために少しでも心を動かされたものがこの都の中にあったら」と、スクルージはもうこの上見てはいられないような気持で云った。「なにとぞその人を私に見せて下さい。精霊殿、お願いで御座います!」
精霊は一瞬間彼の前にその真黒な衣を翼のように拡げた。そして、それを引いた時には、そこに昼間の部屋が現われた。その部屋には、一人の母親とその子供達とが居た。
その女は誰かを待っているのであった。それも頻りに物案じ顔に待ち侘びているのであった。と云うのは、彼女が部屋の中を頻りに往ったり来たりして、何か音のする度に吃驚して飛び上がったり、窓から戸外を眺めたり、柱時計を眺めたり、時には針仕事をしよ
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