を休めて居たことがない。創作をする傍、赤ン坊の着物も縫へば、お芋の皮も剥く。いや、赤ン坊の着物を縫ひ/\、お芋の皮を剥く傍創作をしたのでした。實際、おしづさんは勝手元の料理が上手でした――尤も、多少飯事《まゝごと》のやうでもあつたけれど。私の家は老女《としより》始め舊式な女ばかり揃つて居る家ですが、其の私の家へ始めてフライ鍋を輸入して、手製の洋食が喫《た》べられるやうにして呉れたのはおしづさんでした。さう、あの子が來出した初めの頃です。臺所の板の間《ま》へぺちやんこ[#「ぺちやんこ」に傍点]と坐つて、新に買はせたフライ鍋や、ヘツトや、チーズや、パン粉を膝の周りに引寄せながら、あの可愛らしい手で――おしづさんは決して美人ではなかつたが、手だけは尖細《さきぼそ》の、あれが圓錐型《テーパがた》とでも云ふでせう、非常に美しい手をして居ました――米利堅粉を捏《こ》ねて、始めてコロツケを造つて喰はせて呉れたことを今でもおぼえて居る。
 上野山君と結婚してから、間もなくおしづさんは二人で伊勢から鳥羽、京都の邊へ半年餘りも旅行しました。あの時代がおしづさんの一生の花時代のやうに外間からは想像されます。其の代り隨分難儀もした樣でした。何しろ親戚では結婚に反對した位だから、二人の熱烈な、同時に無力なロマンチケルに對して、丸で補助と云ふものをして呉れませんでしたから、又二人の方でも、それを受けませんでしたから。併し物質的に苦しむのと同じ比例に於いて、二人は精神的に滿足だつたらうと信じます。そして、特殊な運命で結び附けられた二人は、なか/\物質的の苦痛位で醒めるやうな夢ではなかつたらうと思ふからです。で、互に滿足した二人は滅多に私の家へも寄り附きませんでした。其間に四谷見附の花家とかと往來《ゆきゝ》して居たやうですが、其邊の悉しい話は私は殆ど知らない。只一昨々年の暮の大晦日の前の日と云ふに、上野山君がおしづさんが子を生んだと云ふので、私の家へ駈け込んで來ました。それから又五六箇月の間頻繁に往來をしましたが、夏の初めに成つておしづさんが又喀血して、茅ヶ崎へ轉地することに成りました。二人が茅ヶ崎へ移つてから更に病勢が宜しくないと云ふので、入院の便を計るために、私が二人と親戚との間を調停したのが妙な誤解を招いて、二人はそれから私の家へ來なく成りました。尤も、おしづさんからは一二度手紙を貰つたやう
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