人間と鳶とは余ほどの親しみを持っていたらしいが、文明の進むに連れて、人間と鳶との縁がだんだんに遠くなった。
日露戦争前と記憶している。麹町の英国大使館の旗竿に一羽の大きい鳶が止まっているのを見付けて、英国人の館員や留学生が嬉《うれ》しがって眺めていた。留学生の一人が私に云った。
「鳶は男らしくていい鳥です。しかし、ロンドン附近ではもう見られません。」
まだ其の頃の東京には鳶のすがたが相当に見られたので、英国人はそんなに鳶を珍しがったり、嬉しがったりするのかと、私は心ひそかに可笑《おか》しく思った位であったが、その鳶もいつか保護鳥になった。東京人もロンドン人と同じように、鳶を珍しがる時代が来たのである。もちろん鳶に限ったことではなく、大都会に近いところでは、鳥類、虫類、魚類が年々に亡びて行く。それは余儀なき自然の運命であるから、特に鳶に対して感傷的の詠嘆を洩らすにも及ばないが、初春の空にかのトンビ凧を飛ばしたり、大きな口をあいて「トンビ、トロロ」と歌った少年時代を追懐すると、鳶の衰滅に対して一種の悲哀を感ぜずにはいられない。
むかしは矢羽根に雉《きじ》または山鳥の羽《はね》を用いたが、それらは多く得られないので、下等の矢には鳶の羽を用いた。その鳶の羽すらも払底《ふってい》になった頃には、矢はすたれて鉄砲となった。そこにも需要と供給の変遷が見られる。
私はこのごろ上目黒《かみめぐろ》に住んでいるが、ここらにはまだ鳶が棲んでいて、晴れた日には大きい翼をひろげて悠々と舞っている。雨のふる日でもトロトロと鳴いている。私は旧友に逢ったような懐かしい心持で、その鳶が輪を作って飛ぶ影をみあげている。鳶はわが巣を人に見せないという俗説があるが、私の家のあたりへ飛んで来る鳶は近所の西郷山に巣を作っているらしい。その西郷山もおいおいに拓《ひら》かれて分譲地となりつつあるから、やがてはここらにも鳶の棲家を失うことになるかも知れない。いかに保護されても、鳶は次第に大東京から追いやらるるのほかはあるまい。
私はよく知らないが、金鵄《きんし》勲章の鵄は鳶のたぐいであると云う。然らば、たとい鳶がいずこの果てへ追いやられても、あるいはその種族が絶滅に瀕《ひん》しても、その雄姿は燦《さん》として永久に輝いているのである。鳶よ、憂うる勿《なか》れ、悲しむ勿れと云いたくもなる。
きょうも暮春の
前へ
次へ
全204ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング