朱鞘《しゅざや》の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯《ほおば》の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇《てっせん》を持っていた。悠々と蒲団《ふとん》の上にすわって、角《つの》細工の骸骨《がいこつ》を根付《ねつけ》にした煙草《たばこ》入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽《らいさんよう》の詩を吟じた。
町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿《おはぐろ》を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ上《のぼ》って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河《ひらかわ》の天神さまへも参詣して行こうと云った。
おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う鬨《とき》の声が揚がった。焙烙《ほうろく》調練が始まったらしい。
わたしは巻煙草を喫《の》みながら、椅子《いす》に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に唇《くちびる》を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。
芸妓
有名なおてつ牡丹餅の店が私の町内の角に存していたころ、その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋《げいしゃや》もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原《よしわら》に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮《やぼ》な町では無かったらしい。
また、その頃のことで私がよく記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確かに今の方がよい。下町《したまち》は知らず、われわれの住む山の手では、商家でも店でこそランプを用《もち》いたれ、奥の住居《すまい》ではたいてい行燈《あんどう》をとぼしていた。家によっては、店先にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯《ガス》燈もない、電燈もない、軒ランプなども無論なかった。したがって、夜の暗いことはほとんど今の人の想像の及ばないくらいで、湯に行くにも提灯《ちょうちん》を持ってゆく。寄席《よせ》に行くにも提灯を持ってゆく。おまけに路がわるい。雪どけの時などには、夜はうっかり歩けないくらいであった。しかし今日《
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