こに休んでいる人々を相手に、いつも愉快に談笑しているのである。私もこの立ちン[#「ン」は小書き]坊君を相手にして、しばしば語ったことがある。
私が最も多くこの柳の蔭に休息して、堀端の涼風の恩恵にあずかったのは、明治二十年から二十二年の頃、すなわち私の十六歳から十八歳に至る頃であった。その当時、府立の一中は築地の河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この堀端を往来しなければならなかった。朝は登校を急ぐのと、まだそれ程に暑くもないので、この柳を横眼に見るだけで通り過ぎたが、帰り道は午後の日盛りになるので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附《すきやばしみつけ》をはいって有楽町《ゆうらくちょう》を通り抜けて来ると、ここらが丁度休み場所である。
日蔭のない堀端の一本道を通って、例のうなぎ釣りなぞを覗《のぞ》きながら、この柳の下にたどり着くと、そこにはいつでも三、四人、多い時には七、八人が休んでいる。立ちン[#「ン」は小書き]坊もまじっている。氷水も甘酒も一杯八|厘《りん》、その一杯が実に甘露の味であった。
長い往来は強い日に白く光っている。堀端の柳には蝉《せみ》の声がきこえる。重い革包《カバン》を柳の下枝にかけて、帽子をぬいで、洋服のボタンをはずして、額の汗をふきながら一杯八厘の甘露をすすっている時、どこから吹いて来るのか知らないが、一陣の涼風が青い影をゆるがして颯《さっ》と通る。まったく文字通りに、涼味骨に透るのであった。
「涼しいなあ。」と、私たちは思わず声をあげて喜んだ。時には跳《おど》りあがって喜んで、周囲の人々に笑われた。私たちばかりでなく、この柳のかげに立ち寄って、この涼風に救われた人々は、毎日何十人、あるいは何百人の多きにのぼったであろう。幾人の立ちン[#「ン」は小書き]坊もここを稼ぎ場とし、氷屋も甘酒屋もここで一日の生計を立てていたのである。いかに鬱蒼《うっそう》というべき大樹であっても、わずかに五株か六株の柳の蔭がこれほどの功徳《くどく》を施していようとは、交通機関の発達した現代の東京人には思いも及ばぬことであるに相違ない。その昔の江戸時代には、ほかにもこういうオアシスがたくさん見いだされたのであろう。
少年時代を通り過ぎて、わたしは銀座《ぎんざ》辺の新聞社に勤めるようになっても、やはり此の堀端を毎日往復した。しかも日が
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