頼むことがある。教師も学校の帰途に生徒の家をたずねて、父兄にいろいろの注意をあたえることもある。したがって、学校と家庭の連絡は案外によく結び付けられているようであった。その代りに、学校で悪いことをすると、すぐに家へ知れるので、私たちは困った。[#地付き](昭和2・10「時事新報」)
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三崎町の原


 十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田《かんだ》の三崎町《みさきちょう》まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥の方へは震災以後一度も踏み込んだことがなかったので、久し振りでぶらぶらあるいてみると、震災以前もここらは随分混雑しているところであったが、その以後は更に混雑して来た。区画整理が成就した暁には、町の形が又もや変ることであろう。
 市内も開ける、郊外も開ける。その変化に今更おどろくのは甚だ迂闊《うかつ》であるが、わたしは今、三崎町三丁目の混雑の巷《ちまた》に立って、自動車やトラックに脅《おびや》かされてうろうろ[#「うろうろ」に傍点]しながら、周囲の情景のあまりに変化したのに驚かされずにはいられなかった。いわゆる隔世《かくせい》の感というのは、全くこの時の心持であった。
 三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高い堤《どて》で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には首縊《くびくく》りの松などという忌《いや》な名の付いていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人を咬《か》んだ。追剥《おいは》ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町《ふじみちょう》の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊に絞め殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
 わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、すなわち私が十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつはほとんど欠かさずに、この練兵場を通り抜けなければならなかった。その当時はもう練兵をやめてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱の方でも直ぐ
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