人々からは安っぽく見られ易いものである。梅雨のあける頃から花をつけて、十一月の末まで咲きつづけるのであるから、実に百日以上である上に、紅、黄、白などの花が続々と咲き出すのは、なんとなく爽快の感がある。元来が強い草であるから、蒔きさえすれば生える、生えれば伸びる、伸びれば咲く。花壇などには及ばない、垣根の隅でも裏手の空地でも簇々《そうそう》として発生する。あまりに強く、あまりに多いために、ややもすれば軽蔑され勝ちの運命にあることは、かの鳳仙花《ほうせんか》などと同様であるが、わたしは彼を愛すること甚だ深い。
炎天の日盛りに、彼を見るのもいいが、秋の露がようやく繁く、こおろぎの声がいよいよ多くなる時、花もますますその色を増して、明るい日光の下《もと》に咲き誇っているのは、いかにも鮮《あざや》かである。しょせんは野人の籬落《まがき》に見るべき花で、富貴の庭に見るべきものではあるまいが、われわれの荒庭には欠くべからざる草花の一種である。
その次は薄《すすき》で、これには幾多の種類があるが、普通に見られるのは糸すすき、縞すすき、鷹の羽すすきに過ぎない。しかも私の最も愛好するのは、そこらに野生の薄である。これは宿根《しゅっこん》の多年草であるが、もとより種まきの世話もなく、年々歳々生い茂って行くばかりである。野生のすすきは到るところに繁茂しているので、ひと口にカヤと呼ばれてほとんど園芸家には顧みられず、人家の庭に栽えるものでは無いとさえも云われているが、絵画や俳句ではなかなか重要の題材と見なされている。
十郎の簑《みの》にや編まん青薄
これは角田竹冷《すみたちくれい》翁の句であるが、まったく初夏の青すすきには優しい風情がある。それが夏を過ぎ、秋に入ると、ほとんど傍若無人ともいうべき勢いで生い拡がってゆく有様、これも一種の爽快を感ぜずにはいられない。殊に尾花がようやく開いて、朝風の前になびき、夕月の下《もと》にみだれている姿は、あらゆる草花のうちで他にたぐいなき眺めである。
すすきは夏もよし、秋もよいが、冬の霜を帯びた枯れすすきも、十分の画趣と詩趣をそなえている。枯れかかると直ぐに刈り取って風呂の下に投げ込むような徒《やから》は倶《とも》に語るに足らない。しかも商売人の植木屋とて油断はならない。現に去年の冬の初めにも、池のほとりの枯れすすきを危うく刈り取られようと
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