を幾つも話して聞かせた。若い記者はいちいちそれを手帳に書き留めた。――ここまで語れば大抵判るであろうが、その記者はわたしである。但し、老人の本名は半七ではない。
 老人の話が果たして受け売りか、あるいは他人に托して自己を語っているのか、おそらく後者であるらしく想像されたが、彼はあくまでも受け売りを主張していた。老人は八十二歳の長命で、明治三十七年の秋に世を去った。その当時、わたしは日露戦争の従軍新聞記者として満洲に出征していたので、帰京の後にその訃《ふ》を知ったのは残念であった。
「半七捕物帳」の半七老人は実在の人物であるか無いかという質問に、わたしはしばしば出逢うのであるが、有るとも無いとも判然《はっきり》と答え得ないのは右の事情に因るのである。前にも云う通り、かの老人の話が果たして受け売りであれば、半七のモデルは他にある筈である。もし彼が本人であるならば、半七は実在の人物であるとも云い得る。いずれにしても、わたしはかの老人をモデルにして半七を書いている。住所その他は私の都合で勝手に変更した。
 但し「捕物帳」のストーリー全部が、かの老人の口から語られたのではない。他の人々から聞かされた話もまじっている。その話し手をいちいち紹介してはいられないから、ここでは半七のモデルとなった老人を紹介するにとどめて置く。[#地付き](昭和11・8「サンデー毎日」)
[#改ページ]


歯なしの話


 七月四日、アメリカ合衆国の独立記念日、それとは何の関係もなしに、左の上の奥歯二枚が俄かに痛み出した。歯の悪いのは年来のことであるが、今度もかなりに痛む。おまけに六日は三十四度という大暑、それやこれやに悩まされて、ひどく弱った。
 九日は帝国芸術院会員が初度の顔合せというので、私も文相からの案内を受けて、一旦は出席の返事を出しておきながら、更にそれを取消して、当夜はついに失礼することになった。歯はいよいよ痛んで、ゆるぎ出して、十一日には二枚ながら抜けてしまった。
 わたしの母は歯が丈夫で、七十七歳で世を終るまで一枚も欠損せず、硬い煎餅でも何でもバリバリと齧《かじ》った。それと反対に、父は歯が悪かった。ややもすれば歯痛に苦しめられて、上下に幾枚の義歯を嵌《は》め込んでいた。その義歯は柘植《つげ》の木で作られていたように記憶している。私は父の系統をひいて、子供の時から齲歯《むしば》の患
前へ 次へ
全204ページ中192ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング