わたしの小学校時代は今から四十幾年のむかしである。地方は知らず、東京の小学校が今日のような形を具《そな》えるようになったのは、まず日清戦争以後のことで、その以前、すなわち明治初年の小学校なるものは、建物といい、設備といい、ほとんど今日の少年または青年諸君の想像し得られないような不体裁のものであった。
ひと口に麹町小学校出身者と云いながら、巌谷小波氏やわたしの如きは実は麹町小学校という学校で教育を受けたのではない。その当時、いわゆる公立の小学校は麹町の元園町に女学校というのがあり、平河町《ひらかわちょう》に平河小学校というのがあって、その附近に住んでいる我々はどちらかの学校へ通学しなければならないのであった。女学校と云っても女の子ばかりではなく、男の生徒をも収容するのであったが、女学校という名が面白くないので、距離はすこし遠かったが私は平河小学校にかよっていた。その二校が後に併合されて、今日の麹町尋常小学校となったのであるから、校舎も又その位置も私たちの通学当時とはまったく変ってしまった。したがって、母校とは云いながら、私たちに取っては縁の薄い方である。
そのほかに元園町に堀江小学、山元町《やまもとちょう》に中村小学というのがあって、いわゆる代用小学校であるが、その当時は私立小学校と呼ばれていた。この私立の二校は江戸時代の手習指南所《てならいしなんじょ》から明治時代の小学校に変ったものであるから、在来の関係上、商人や職人の子弟は此処《ここ》に通うものが多かった。公立の学校よりも、私立の学校の方が、先生が物柔らかに親切に教えてくれるとかいう噂もあったが、わたしは私立へ行かないで公立へ通わせられた。
その頃の小学校は尋常と高等とを兼ねたもので、初等科、中等科、高等科の三種にわかれていた。初等科は六級、中等科は六級、高等科は四級で、学年制度でないから、初学の生徒は先ず初等科の第六級に編入され、それから第五級に進み、第四級にすすむという順序で、初等科第一級を終ると中等科第六級に編入される。但《ただ》し高等科は今日の高等小学とおなじようなものであったから、小学校だけで済ませるものは格別、その以上の学校に転じるものは、中等科を終ると共に退学するのが例であった。
進級試験は一年二回で、春は四月、秋は十月に行なわれた。それを定期試験といい、俗に大試験と呼んでいた。それであるか
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