そうは問屋で卸《おろ》さなかった。鉄の門は再び閉められてしまった。我々は再びもとの袖萩になってしまった。なんでも我々の脚本を上場したと云うことが作者部屋の問題になって、外部の素人の作を上場するほどなら、自分たちの作も続々上場して貰いたいとか云う要求を提出されて、井上氏もその鎮圧に苦しんだとか聞いている。そんな事情で、われら素人の脚本はもう歌舞伎座で上演される見込みは絶えてしまった。
 その当時に帝国劇場はなかった。新富座はたしか芝鶴《しかく》が持主で、又五郎《またごろう》などの一座で興行をつづけていて、ここではとても新しい脚本などを受付けそうもなかった。
「差当り芝居を書く見込みはない。」
 わたしは一旦あきらめた。その頃は雑誌でも脚本を歓迎してくれなかった。いよいよ上演と決まった脚本でなければ掲載してくれなかった。どっちを向いても、脚本を書くなどと云うことは無駄な努力であるらしく思われた。私も脚本を断念して、小説を書こうと思い立った。
 明治三十六年に菊五郎と団十郎とが年を同じゅうして死んだ。これで劇界は少しく動揺するだろうと窺っていると、内部はともあれ、表面にはやはりいちじるしい波紋を起さなかった。私はいよいよ失望した。三十七年には日露戦争が始まった。その四月に歌舞伎座で森鴎外《もりおうがい》博士の「日蓮辻説法《にちれんつじせっぽう》」が上場された。恐らくそれは舎弟の三木竹二《みきたけじ》君の斡旋《あっせん》に因《よ》るものであろうが、劇界では破天荒の問題として世間の注目を惹《ひ》いた。戦争中にも拘らず、それが一つの呼物になったのは事実であった。
 その頃から私は従軍記者として満洲へ出張していたので、内地の劇界の消息に就いてはなんにも耳にする機会がなかった。その年の八月に左団次の死んだことを新聞紙上で僅《わず》かに知ったに過ぎなかった。実際、軍国の劇壇には余りいちじるしい出来事も無かったらしかった。

 明治三十八年五月、わたしが戦地から帰った後に、各新聞社の演劇担当記者らが集まって、若葉会という文士劇を催した。今日では別に珍しい事件でも何でもないが、その当時にあっては、これは相当に世間の注目を惹《ひ》くべき出来事であった。第一回は歌舞伎座で開かれて、わたしが第一の史劇「天目山《てんもくさん》」二幕を書いた。そのほかには、かの「日蓮辻説法」も上演された。これが私
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